慶應義塾大学学費闘争 1972〜1973 日吉の闘い
                  安田 宏

1.学費値上げ反対・自治会再建の動き

 1972年は後々語られるようになる時代の転換期だった。世間が札幌オリンピックの話題で沸いている中、インフレは加速、一方投機熱が盛んになり、「素人への投資の勧め」までが頻繁におこなわれた。現在に続く、「自己責任」論、新自由主義への流れの始まりだったようだ。田中角栄首相は日中国交正常化の実績をもって総選挙に打って出た。まだ首相が人気絶頂だった頃だ。この内閣にあって、「列島改造」の名のもとに、税金は地方の「開発」に注ぎ込まれ、また、後に問題になる「年金基金の遣い込み」、「宿泊施設、マッサージ機からゴルフボールまで」、「年金はどんどん入ってくるから使ってしまえ」と空前の無駄遣いも行われるようになっている。今頃になって「年金基金が足りない」、「若者の数が減り、多数の高齢者を支え切れない」などというキャンペーンが行われている。

 新左翼運動は、「あさま山荘事件」から「連合赤軍リンチ殺人事件」、さらには「テルアビブ空港乱射(無差別殺人)事件」に至って、それまで一定のシンパシーを抱いていた人々まで一切擁護などしないようになっていった。
 慶應大学ではこの連合赤軍メンバーだったOが処分されている。
 この時代、「左翼」、「過激派」は疎まれ、パージされる対象だったのである。

 この状況下、相模原戦車補給廠前での、「ただの市民が戦車を止める会」の闘いは画期的だった。実際にベトナムの戦場と日本を往復する戦車を100日以上にわたって「止めた」のである。解放後ベトナム政府の要職につき、来日した元解放戦線戦士は、「あのニュース、日本の市民が戦車を止めたという情報は解放戦線の塹壕を飛び交い、私たちは本当に勇気づけられた」と語ったほどである。補給廠前のテント村は、社会党、共産党、中核派、革マル派、べ平連、都職労、法大全共闘、戦旗、叛旗、他ブント各派、など、支援のテントが並び、まさに「呉越同舟」の観を呈した。
 僕は再建委のテントに出入りし、社学同の赤ヘルメットでデモに参加していた。一度、叛旗派の隊列と並行して16号線に出て機動隊とぶつかり、ドジで逃げ遅れてリンチにあい、肋骨を折られた。逮捕されなかったのはラッキーだった。

 そんな年、慶應大学では「学費値上げ」の噂がしきりだった。前年71年、早稲田大学では既に学費値上げが決定、発表されていた。1月には、国立大学授業料を3倍にする大蔵省原案を文部省、自民党が了承している。インフレの時代にも関わらず、僕たちは、1965年、第1次学費闘争の際に「値上げ」された学費のままで入学、在学していたのである。この年、私立大学106校で値上げがあり、国公私立120校で学費値上げ反対闘争が闘われる。

 高校闘争後、受験しないで、1年遅れで入学した僕は、71年に入学して以来、遊び惚けていた。幼馴染の車で湘南に出かけたり、彼の自宅があった目白で毎晩のように遅くまで飲んでいたり、といった毎日だった。期待していた社会科学系の授業がまったく面白くなくて、サボってばかりいたのである。が、この「学費値上げ」については自分なりに闘おうと決心した。同クラス、そして同じ政治学科の仲間を集め始める。

 来るべき「学費闘争」を見据え、僕は周辺にいたノンセクトの仲間と、まず「自治会再建」の必要性を考え、その呼びかけ、クラス討論に取り組んでいった。待っていたのは、「左翼帰れ!」、「慶應が嫌なら出ていけ!」の声であった。また一方には「学費問題なんて矮小だ」、「ポツダム自治会はナンセンスだ」などという先験的な規定とともに「新左翼」を自称する少数の人たちの声であった。
 とはいえ、65年の第一次学費闘争では、「今後学費値上げの際は学生代表と協議して決める」という「事前協議制」が当時の高村塾長との間で合意されていたと言い伝えられていた以上、当局との窓口になる自治会がなければ話にならないと僕たちは考えた。1月に既にあったはずの「学費闘争を闘う」とまでうたった三田キャンパスの「全塾自治会(谷委員長)」は執行部の姿も消え、4月にはもうなくなっていた。「学費値上げ」を示唆した当局をして「正式な自治会とは認められない」と言わしめたほどだった。

 日吉キャンパスの僕たちは、5月25日、政治学科のクラス委員総会(14クラス、委任状4)を開催し、学費値上げ阻止を目指し、政治学会(政治学科自治会)の再建準備委員会を立ち上げた。だが、翌26日、民青系の「慶應民主化会議」はこの集会の無効を呼び掛けた。また「自治会など認めない」とするクラスもあった。僕たちは再度各クラスに戻り、また他のクラスにも討論を呼び掛け、さらに話し合った。
 とりあえず暫定執行部を選任、委員長に近森土雄、僕が副委員長に就いた。正式決定は次期総会に持ち越しとした。

 さて、6月1日、大学報には、「財政窮乏化」を訴え、また、文部省の提唱する「受益者負担の原則」を振りかざし、近いうちの学費値上げを示唆する内容が改めて掲載された。この「受益者負担」という言葉は当時の経済界の流行語で、あちこちで使われていた。「教育投資論」と結びつき、これもやはり今の「新自由主義」イデオロギーの先駆けであった。
 この「受益者負担」と「事前協議制」とは、慶大学費闘争にあってキーワードだった。
 同日、政治学科クラス委員総会において、日吉政治学会は正式に発足した。委員長は近森土雄、僕が副委員長の臨時執行部と同じ布陣である。
 この後、学費値上げ反対のいくつかのクラス決議があり、さらに学費値上げの方針についての「公開質問状」が1、2年のいくつかのクラスから出され、塾長、塾監局に郵送されている。
 また、商学会(商学部自治会)の再建の動きも始まった。
生協も学費値上げ反対を決定した。

 これらの日吉での活発な動きに比して、「三田の静けさは驚くばかり」と「慶應塾生新聞」は見出しに書いている。確かに、全塾自治会どころか各学部自治会の再建の話も聞こえてこなかった。結果論になるが、せめてこの時点で三田にあっても自治会再建の動きを始めていたらその後の展開も変わってきただろうと思う。

2.学費値上げ決定から無期限ストライキへ

 この夏、すでに社学同に加盟していた僕は、三里塚現闘本部のあった農家に泊まり込んで、24時間交代の鉄塔防衛にあたったり、援農で働いたり、何より相模原戦車闘争に出かけたりと忙しい日々であった。

 政治学会執行部は合宿を行い、秋の学費闘争の準備と意志一致をした。

 僕は、その年、6.15政治集会での、共産主義者同盟(ブント)創設者で60年安保闘争を指導した島成郎の話に感動し、また、やはり60年安保ブントで、当時は共産主義者同盟再建準備委員会(情況派)の政治局員になっていた長崎浩の「党と同盟の分離」、「大衆政治同盟の形成」という組織・運動論に共感し、柄にもなく加盟を済ませていた。が、この学費闘争については、学対は一切の党派色を出さず、無党派の運動に徹底すべきという「大衆政治同盟」論からくる方針であり、僕は自由に、というより勝手に動いていた。僕にしてみれば当然のことと思えた。これは後にストライキ実行委員会を結成する際にも多くの支持を集めるのに非常に効果的だった。他の新左翼セクトも、民青も、党派色を出さずに参加せざるを得なかったからだ。つまり、ストライキ実行委員会はあくまでも無党派の大衆組織であり「党派間共闘」ではありえなかったのである。

 7月7日、日吉でちょっとした騒ぎがあった。日吉中庭で佐藤学生部長を見つけ、政治学会執行部と数名の学生が近くの教室に連れ込んで「公開質問状」への回答を迫った。数時間のやり取りの末、公開質問状への回答は8月1日に塾長から発表する、「協議」する自治会は「学生の動き」次第とする、と二つの内容を確認、佐藤学生部長はこれらを書いた書面にサインしたのである。
 果たして8月1日、大学報に「学費問題」についての大学側見解が発表される。「公開質問状」への回答であった。曰く。学費値上げは「検討中」である。値上げしたとしても在学生には適用しない。そして、「自治会は学生次第」とされた。

 明けて9月、日吉商学会(商学部自治会・U委員長)が再建される。
 同月、「学費問題シンポジウム」も開かれている。

 実は、この学費値上げの動きとともに、当局は日吉中庭への「厚生棟」の着工計画を進め、すでに実施段階に入っていた。これは、食堂、サークル室、などを備えた施設と一方的に説明されていたが、当時日吉「3号館」校舎をサークル、「以前の」自治会執行部(セクトによる)などが勝手に「学館」のように使っていたのに対して、「管理強化」を狙った新施設であることが明らかだった。僕たちは相模原闘争にちなんで「ただの塾生が厚生棟着工を阻止する会」を結成。3号館横の空き地にテントを張って、寝袋を持ち込んで「実力阻止」の構えを見せていた。10月9日、着工が開始されるのだがこれは「阻止する会」によって文字通り阻止された。結局この「厚生棟」は学費闘争終結の2年後くらいに着工されたと聞いている。確かに「実力阻止」したわけだが、当局の優先順位も低かったのだろう。
 日吉政治学会、同商学会の再建が早かったのは、この「阻止する会」のメンバーがその2学部に多く、執行部をスムーズに構成できたことによる。

 10月23日、当局は学費値上げを発表した。その値上げ幅は驚くべきもので、また、なんの「事前協議」もない一方的な発表だった。さらに11月8日に「学費改訂説明会」を三田で開くとも発表された。

 この一方的な、「値上げを前提とした」説明会開催に怒った僕たちは、「説明会粉砕」を掲げて、三田の会場へ初めてヘルメットを被って向かった。説明会は流会となった。
 だが、発表以降の当局の動きは早く、同月15日の理事会、そして20日の評議員会での最終決定へと進んでいく。慶應義塾関係者なら知る通り、「評議員会」とはオール慶應義塾の最高意思決定機関である。

 15日、「理事会粉砕」を叫んで、今度は路線バスを数台貸し切り、僕たちはまた三田に押し掛けた。この時は三田に「阻止共闘」も出来ていて、多人数が三田構内をデモ、塾監局に突入した。

 20日、機動隊を動員した警備の中、半蔵門のダイヤモンドホテルで評議員会が行われ、「学費値上げ」が最終決定される。
 僕たちは当初からデモ隊列を機動隊にサンドイッチ規制され、会場に近づけなかったが、夕刻になって、白衣を着た医学部の隊列とともに会場付近でデモ、500名以上の学生が規制する機動隊と衝突した。後ろからは牛乳瓶や小石が飛んできて混乱、日吉政治学科の1名が逮捕された。

 この後、日吉文学会(文学部自治会・K委員長)、理財学会(経済学部自治会・横山淳委員長)をはじめ、各学部自治会の再建が進み、日吉自治会も再建される。医学部予科自治会(医学部進学課程自治会・F委員長)も再建されていた。その経緯から日吉自治会執行部は近森土雄委員長、副委員長に僕が就くということで政治学会執行部がスライドした形になった。三田「全塾自治会・I委員長」は12月半ばにやっと再建される。

 12月1日、日吉の学生大会は感動的だった。記念館に3,000名以上が集まり、圧倒的多数で「学費値上げ白紙撤回」と無期限ストライキを決議。その会場に、11月20日に逮捕された政治学会の三野進政治学会委員長(僕たちが日吉自治会執行部にスライドしたので、この時点で彼は政治学会委員長になっている)が釈放されて駆け付け、拍手で迎えられた。
 この決議に基づき、12月7日から日吉は無期限ストライキに突入、僕がストライキ実行委員長に就く。

慶応

 (「行け!不退転戦列へ 闘争の死滅か、血みどろの勝利か」73オリエンテーション実行委員会より転載)
 12月半ばには、当局の意を受けたと思われる学生らの「慶應大学紛争事実調査委員会(Fact Finding Keio Commission)略称FKC」が結成されている。

 年が明け、73年1月から文学部を皮切りに各学部長会見が行われる、が、やはり一方的なもので学生は収まらない。

 1月14日、三田でもストを可決したと情報が来た。

 1月23日、「慶應塾生新聞」に塾長会見が掲載された。(ストライキ中の)自治会執行部には会う用意がある、が、「白紙撤回」を前提とした話し合いには応じられない、「事前協議制」という高村提案は制度として確立したのではなく、あくまで大学側の真意を理解してもらうために努力するということである、との内容であった。

 1月30日、日吉記念館に12,000名以上を集め、(のべ27,000名・塾生新聞発表)塾長・理事会見が開かれる。佐藤塾長は体調を理由に2分ほど発言(野次で聞き取れなかった)、20分弱で姿を消し、塾長代理として全権委任された生田代行はまず「値上げ決定前に話し合いをしたかったが、自治会が機能していなかった」ことを強調、暗に自治会批判を行った。先に書いたように、値上げ決定前に自治会再建がなされていればこんな居直りは出来なかったはずで、結局当局の学費値上げ決定のプロセスに一拍ずつ遅れて反対闘争が展開されたことになる。が、いずれにしても、「事前協議制」は制度ではなく、「大学側の真意を理解してもらうための努力」とされた塾長見解が出ている中、これは一面的なエクスキューズにすぎなかった。果たして、本日、自治会は塾生の総意を代表しているか?と会場に問いかけられ、参加者は大きな拍手で答えている。他にも、塾の財政状態について、「100億円の赤字は真実か?」、「決定過程において、各方面の意思を確認したのか?」などと質問がでたが、生田代行は答えられず、最終的には「今後、学生代表と理事との定例会見を設ける。また、48年度からの奨学金をさらに拡充する」とし、僕たちは「白紙撤回」を譲らず、3時間あまりの理事会見は次回に持ち越されることになった。「奨学金の拡充」については、過去、どの大学の「学費値上げ」にあっても「奨学金によって学生が救われた例はない」旨、僕はデータを出して反論したことを覚えている。また、生田代行は「医学部などでは独自に説明会を開き、了承を得た」と発言したが、四谷の医学部ではすでに「学費値上げ白紙撤回」を掲げてストライキに入っていて、当局の「説明会」が値上げを前提としたアリバイ的なものであることは明らかだった。

 2月8日、再度の塾長・理事会見が開かれる。9,000名以上がまた日吉記念館を埋めたが、この時は初めから佐藤塾長は姿を見せず、議論、質問も前回と変わらず、既に発行された文書の読み直しに終始した生田理事も途中退席、逃亡する有様であった。なお、この時は会場に「卒業したい」、「春休みをください」などといったスト解除派のプラカードが登場している。終了後、スト実と、学費値上げに反対する学生が記念館前でデモを行ったが、この「スト解除」派の学生と小競り合いが起きている。

 2月12日、三田、学生大会ではスト解除が決議され、14日より授業再開とされた。1か月に満たないストで終わり、自治会執行部はリコールされてしまった。ちなみに四谷の医学部では「6年生のみ」12日から授業が再開されている。ということは、四谷医学部でも下の学年はストを続行していたということだ。

3.ストライキ実行委員会の内実

 ここで日吉のストライキ実行委員会の内実に触れておきたい。先に書いたように、このスト実は、各クラスから有志が参加して構成された集団で、セクトが「セクトとして」参加することはなかった。が、当然ながら、セクトの活動家も加わってきていた。叛旗派は他大学から2名、関西の反戦共闘(L研)は京大から1名、それぞれ入り込んできた。解放派、中核派の慶大生もいたようだ。「ようだ」というのは誰が解放派なのか、中核派なのかは僕にはわからなかったからだ。理財学会委員長の横山が解放派なのは知っていたが、あとはわからなかった。(中核派はすでに革マルとの戦争状態に入っていたから、顔を知られたベテラン活動家は地下に潜り、それとわからない活動家をスト実に入れたのだと思われる)また、とりあえずそんな識別は不要だった。民青系の在学生も加わっていたが、彼らはわかりやすかった。そんな集団で、必要な時は全員黒のヘルメットをかぶった。
 異様だったのは革マル派で、彼らはスト実にはまったく関わりなく、他大学の学生も含めていただろう集団で「革マルZメット」を被って時折中庭に登場した。11.8説明会粉砕闘争の時は強引に近づいてきて、三田での粉砕闘争に来ていた。同日、革マル派は早稲田大学で川口大三郎君を拉致、リンチの末虐殺している。翌日からは、20日の半蔵門での闘いにヘルメット部隊を登場させただけで、あとで書く5月の「襲撃」のときまで、一切姿を現さなくなった。
 個別課題(川口君の場合は部落解放闘争)に取り組んだ学生を、それをもって「中核派だ」などと敵対するセクト活動家と決めつけてリンチし、殺害するなどというのはもう理屈も何もなく、左翼以前の問題、人として常軌を逸している。中核派が「川口君は中核派の活動家ではない。が、中核派だとして殺害されたのなら断固として反撃する」と声明を出したのは当然だった。

 ともあれ、この50名前後のストライキ実行委員会を軸に、日吉での闘争は展開されることになる。慶應フロントの自壊後、おおきなセクト、中核派、解放派などは革マル派との戦争状態で、全組織を挙げてそれに集中、「大衆運動」、「学費闘争」どころではなかったようで、この空白の中に全学的な学費闘争がスタートしたともいえる。

4.スト続行とスト解除派の登場

 2月13日、日吉では再度の学生大会が開かれる。ここでもスト続行が決議される。

 2月14日この「スト続行」決議に対し、佐藤塾長は日吉への機動隊の出動を要請する。
 18日〜23日の入試を前にこの措置を学生側への「最後通告」としたのだ。15日朝、500名の機動隊を待機させ、日吉はロックアウトされる。16日、若干の右翼学生によるテロがある。
 日吉自治会は「スト破壊を許さず、封鎖解除実力阻止」を宣言した。これ以降、自治会執行部への名指し、処分恫喝が始まる。

 この2月13日学生大会では椿事が起こる。事前に「スト続行」をスト実内で意志一致していた民青系諸君が、「慶應民主化会議」の名でスト中断の対案を出したのだ。それまで共に闘い、同じ黒ヘルメットを被り、評議員会粉砕闘争では機動隊とも衝突している。それが事前の意志一致を翻して対案を出し、結果として学生大会ではFKCのスト解除案とともにスト続行案に対立したのだから僕たちスト実メンバーは怒った。それでも学生大会ではスト続行が決議されたのだが、この「対案」によってスト解除派が多数になったかもしれなかったのだ。
 追及した僕たちに対して、返答はこうだった。大会前夜、彼らは「全学連」本部に行き、そこで、スト実案に乗ることを許されず、対案を出すように指示を受けたとのこと。現場の状況を見ようともせず、闘っている学生の話も聞こうとしない民青系全学連指導部もひどいものだと思ったが、そちらに従った彼らも、スト実の意志一致よりも本部の指示を優先させたのだからやはり許せなかった。彼らはスト実から追い出され、姿を見せなくなった。後に、授業、後期試験阻止の闘いには敵対して登場することになる。

 3月11日 理事会見。執行部、スト実メンバーとの討議が長時間に及んだが物別れになった。

 3月12日 記念館にて塾長所信表明がある。発言を求めた日吉自治会近森委員長にガードマン、右翼が暴行、取り押さえる。
 さらに授業強行に抗議したスト実の学生を機動隊が不当拘留する。

 この日の前、塾長所信表明があるという情報を得た僕たちは、2月以来の経験から、当日、右翼、ガードマン、場合によっては機動隊まで、との激しい衝突を予想した。僕は、横山と相談して、旧知の明治大生Fに頼んで、農具の柄につける樫棒(鉄パイプに勝る武器はこれしかなかった)を30本ほど夜半に運んでもらい、スト実有志の武闘訓練までしていた。指揮は横山が執り、部隊は会場背後に待機した。が、当日の衝突は避けられた。ここで衝突していたら、当局はそれを口実に強力な弾圧に出て、次の学生大会など開けなかったはずだ。屈強とはいえ丸腰のガードマン、右翼に樫棒で殴りかかっていたら、事後も含め、逮捕者も出ただろうし、右翼の「仕返し」襲撃もあっただろう。横山の賢明な判断だった。

 以降、授業強行ボイコット、各クラスでの活発な討論がなされる。

 3月20日 3度目の学生大会(3,500名) 白紙撤回、スト続行を含む10項目が決議される。
 3月26日 後期試験強行阻止闘争。ヘルメットを被ったスト実メンバーが、各試験場に乱入、一部は発煙筒を炊いた。この結果、後期試験は翌年度に持ち越しとなる。また、4月9日に予定されていた入学式も、「混乱を恐れ」、中止と発表される。慶應大学で入学式が中止されるのははじめてとのことだった。この後期試験阻止闘争にあって、あるスト実メンバーが「学生の反発」を心配しながら教室に乱入すると、学生は拍手と歓声で迎え、答案用紙を投げ捨てたという。一緒にいたセクトの学生は「一般学生って何考えてるのかわからないなあ」とつぶやいたという。いや、よくわかる、と思う。セクトの考え方と僕たちのような「大衆運動主義者」との違いだろう。

5.学費値上げ後の「差別告発運動」

 だが、この頃から、スト実内部では議論が混乱し始める。スト続行は決議されたが、すでに入試と合格発表を終え、「値上げされた」学費を支払った新入生は4月の入学を待つばかりになっていた。在学生によるスト続行は可能だが、「学費値上げ白紙撤回」はもはや展望が見えなくなっていた。

 各グループ、セクトによって、語られる方針が違ってくるのである。「大学解体」と言い出すものもいた。叛旗派は「慶大解体」のスローガンを掲げた。
 当時猖獗を極めた「差別告発運動」も盛んに語られた。これには前提がある。前年12月、「韓国旅行の印象」という小文を当時の経済学部長・気賀健三が原理研(統一教会)発行の新聞「慶応キャンパス」に掲載、その中で数回にわたって「北鮮」と記述されていた。これを発見した活動家が「差別言辞だ」と糾弾闘争をスト実に提起し、先に書いた2月8日の塾長・理事会見で糾弾した。気賀学部長は「学費問題とは関係ない」と一蹴した。この糾弾は2月の学生大会議案にも盛り込まれる。結局、気賀学部長は3月には「差別語だとは知らなかった。他意はない。差別感を与えるとすればこの言葉の使用を慎む。」といった文書をもって謝罪するのだが、「それでは済まない(自己批判になっていない)」、「さらに徹底糾弾を」とされた。「現代朝鮮研究会・地域問題研究会」の活動家たちである。他に、やはり当時盛んになったリブ運動に入り、「女(おんな)解放戦線」も結成されている。

 現在に至る、マイノリティの権利、人権を守り、差別を許さない、とする運動の嚆矢となったこの「差別告発運動」の意義は大きい。が、「差別言辞糾弾」は当時明らかに極めて未熟であり、些末な「言葉狩り」による代理糾弾であった。
 後日、「大学に自主講座を」と「自主講座」を勧めに講演に来た五十嵐良雄(横国大講師)も、講演中、「こういうこと(自主講座)は誰にでもできる、馬鹿でもちょんでもできる」と発言し、後ろに立って待ち構えていた活動家たちに、「差別発言だ!」と怒鳴られ、講演を中止させられた。これは、僕は気になって後で調べたが、「ちょん」という言葉は朝鮮人を指す蔑称でもあるが、もともとは江戸時代から、大名などの役職をつけるときに、「以下同じ」という意味で「ちょん」というマークを付けたことに由来し、だんだんと「誰でもいい」、「どうでもいい」ことの意味に使われるようになったとのことで、この場合、五十嵐講師が後者の意味で使ったことは明らかだった。(まさか「朝鮮人でもできる」などと言うはずがない。後に彼はこの顛末を雑誌「現代の眼」の「差別告発運動の陥穽」特集に一文を載せて書いている)

 とはいえ、「差別糾弾運動」は大きな力を持っていた。慶應大学に限ったことではなかった。
 解放派の横山はこれら「課題別」戦線に人力、資金を集中、「自治会」ではなく、その後の運動の拠点として各課題別戦線を残したい、と語るようになった。
 要は、各セクト、各活動家グループの思惑が前面に出てきたということだった。それは自治会執行部の近森や僕とはだいぶ肌合いの違ったものだった。そもそも「差別糾弾運動」の活動家たちは、前年の自治会再建活動、あるいは11月の3回に及ぶ山場の闘争でも見かけたことはなかった。年が明けてから、「差別糾弾」を語りつつスト実に登場してきたのである。
 革マル派に至っては、スト実にもいないのに、外部からビラを入れ、僕たちを「自治会執行部派」などと呼んで見当はずれの「批判」をした。彼らとしてはスト実の「分断」を計ったのだろう。

 新入生の入ってきた4月になって、こうした混乱、対立は深まっていった。

 少し整理すると、例えば「慶大解体」、「大学解体」という方針は別に学生大会で確認されたわけではない。1セクトの方針である。また、「学費値上げ反対」、「白紙撤回」の要求とはその背景が全く違う。「差別糾弾闘争」のグループも主張するように、学費値上げは「下層労働者の教育の断念」としてあり、これへの反対闘争は大学そのもの、高等教育そのものを、「解体」したり否定したりするものではない。

 また、自治会執行部に対する批判も、必ずしも自治会そのものを否定しているわけでもない。
 ただ、横山ら、セクトの学生はよく「自治会運動の枠(制約)を突破する」と言ってはいた。僕たちは違う。自治会運動の枠(制約)そのものを拡大し、学生の自治、権利の範囲を広げていく運動を考えていたのだ。
 実はこの違いはすでに前から「学生大会」の開催をめぐる討論にも現れていた。僕たちは「学園闘争のデッドロック」とも呼ばれる入試、後期試験を前にして、その都度学生大会を開き、学生多数の支持を得て闘うことを主張するが、彼らは「学生大会は開催すべきでない」(「スト解除派が勝ってしまうから」)、と言う。要するに一度学生大会でストを決議したら、そのまま学生多数の意思を確認せず、自分たちの主張だけでストを出来るだけ長く続行し、バリ撤去が強行されるまで「徹底抗戦」する、というわけだ。彼らはこれを「革命的敗北主義」と呼んだようだ。これは全く違う。
 僕たちはこう考えていた。どんなに「正しく」見える方針でも、自治会の「学生大会」で否決、あるいは相手にされなかったらその方針は学内闘争では無効なのだ。それを、「闘うものだけが集結して」断行するというのは独善的であり、ひいては「自分のセクトだけが正しい」とするセクト主義を生む、と。
 これは「全共闘運動」のとても皮相的なとらえ方だった。また、自治会も「ポツダム自治会」などとネガティブに語られるべきではない。

 例えば、東大闘争は、体験者が語るように、クラス決議、また「学生大会に次ぐ学生大会」の連続によってあそこまでの高揚をみせたのであって、初めから東大全共闘が「闘うものだけの結集」でよしとしていたわけではない。日大にあっては、そもそも「自治会の結成」自体が「禁止」されていたのを、やはりクラス決議、学生大会を積み上げて9.30団交まで実現させたのだ。新左翼運動の高揚の契機となった10.8羽田闘争も、三派全学連の結成があってはじめて可能な闘いだった。
 僕たちはそんなことを話し合っていた。が、学生大会開催のこと以外は正面から「論争」などしなかった。噛み合うはずもなかったからだ。ただ、僕の周辺に集まってきたメンバーたちにはこうした考えは当然のこととして共通して理解されていた。

6.自治会執行部、ストライキ実行委員会の辞任

 4月5日、三田で、生田理事、三雲理事らを取り囲んで「缶詰」団交、「学費値上げ白紙撤回」を主張、そのまま18時間、団交は深夜に及んだが、理事たちは沈黙を通した。長時間に及んだので、学外には機動隊が待機した。議論にもならず、埒が明かず、早暁、僕たちは理事たちを「解放」した。部隊で引き上げるとき、待機していた機動隊と小競り合いがあった。
 4月10日、三田で東門を出ようとしていた生田理事を偶然発見したスト実メンバーが「会見」を求めて、止めようとする職員50人くらいと揉み合いになったが、こちらは100人くらいに膨れ上がり。そのまま教室へ連れてきた。理事・塾長代理が教室に閉じ込められたわけで、大学側は「退去命令」を出し、機動隊の出動も要請、機動隊員60名が三田署に待機した。僕たちは取り囲んで改めて「学費値上げ撤回」を主張、糾弾闘争になった。が、生田理事が一人で「撤回」を言えるはずもなく、この時は3時間で理事「釈放」となった。この日も「幻の門」(東門)から退出しようとするスト実の部隊と待ち構えていた警官隊とが鉢合わせ、抗議した学生から負傷者も出た。

 その後、日吉でのスト実会議では、この「理事追及」が事前に漏れていた、「自治会執行部の近森、安田が情報を漏らしていた」と発言するものが現れた。これをきっかけに、僕たちの見えないところで「執行部が当局とつるんでいる(ボス交している)」というキャンペーンが始まった。あとで知ることになるのだが、同じような「執行部批判」のデマは様々な形で四谷など他のキャンパスでもなされていたようだ。必ずしも、セクト、活動家グループからというわけでもなく、一枚岩でなかった当局の一部からも意識的に語られたようだ。これらのデマの出所はいまだに不明である。
 それでも十数名の僕たちに共感するメンバーがいたのだが、他のメンバーからは「情況派フラク」などと揶揄された。この時点で「情況派」に所属、どころか接触していたのも僕だけだから、近森委員長も含めてそれは「ためにする」言いがかりにすぎず、迷惑な話しだっただろう。

 ともあれ、こうした動きの中で、4月のある晩、近森と僕は徹底的に話し合った。この2度にわたる「缶詰」団交の理事の反応を見て、また、値上げされた「新学費」を払い込んだ新入生が既に入学してきているこの段階で、もはや「学費値上げ白紙撤回」はあり得ないこと、各派、各グループの思惑の中で、これ以上自治会執行部として全学でスト続行を貫徹していくことが極めて困難なこと、その他もろもろである。僕自身は情けないことだが、精神的にも肉体的にも疲れてきていた。僕の自宅は台東区にあり、日吉とは1時間半以上の距離がある。その近所で家庭教師のアルバイトを週2〜3回のペースで続けていたから、夜、日吉からバイト先の家庭に行き、自宅には寄らずに終電で日吉に戻る、時には日吉までの終電も逃し、元住吉までで下車して歩くといった生活が続いていた。学生大会で多くの学生から支持され、闘争が高揚しているときは張り合いがあって何でもないことだったが、二桁の小集団の中で、対立し、当局とつるんでいるなどといわれない批判を受けるのにも辟易していた。こんな諍いのために自治会再建からここまで闘ってきたわけではなかった。
 二人の結論は「執行部の辞任」、僕は「スト実委員長も辞任」だった。
 翌日、スト実の会議で申し出たが、対立していた面々はなかなか「辞任」を認めようとしなかった。要は、現執行部の批判、揶揄はするが、自分が執行部として前面に出て当局の矢面に立つのは嫌だというわけだった。そのころになると、近森や僕の自宅には、あるいは三野、横山など他の自治会役員の一部には、「施設破損の責任」を問い「損害賠償を請求する」という内容証明付きの封書が大学当局から何度も郵送されてきていた。僕たちはスト実でそれをたびたび読み上げてもいた。そういうことは嫌だというわけだろう。また、僕たちより「過激」と見なされた、横山、三野は館内放送では名指しで恫喝されていた。
 無党派の数人が、「彼らが当局と繋がっているという噂は僕も聞いた。そんなことまで言われて執行部を続けさせるのは気の毒だ」といった内容の発言をして、何とか「辞任」は認められた。が、そんなわけで後任候補はすぐには出ず、とりあえず、三野進をストライキ実行委員長代行とした。その後、5月には、各学部執行部が集まって、近森、安田が辞めたとなれば、残るのは当初から日吉自治会を立ち上げた商学会のU、あるいは三野がやるしかないと話し合われ、また、少数ながらクラス委員総会も開かれ、日吉自治会委員長は三野進に決まったようだ。

 それにしても、この「噂政治」はひどいもので、「安田が自治会費100万円を横領し、持ち逃げした」などとも言われていたそうだ。要するに、自分たちのグループ、セクトの人集めのために「わかりやすい敵」として執行部を批判し始めたのだろう。

 その前後、「スト実」の役割分担が提案され、政治学会メンバーからは「救援対策班(救対)」が出る。このグループは後日、医学部のTが逮捕、起訴されたのに対し、「T君裁判を闘う会」の中心になっていく。
 叛旗の二人は「弾圧対策班(弾対)」を買って出た。彼らは「外人部隊」だったので、スト実に軸足をつくりたかったようだ。

 それ以降、かなりジグザグ、混乱した方針でスト実は動いていく、が、「辞任」した僕たちは詳しくは知らない。
よってこの先の一部は主に現場にいた人間への聞き書きをもとに書いていく。文章の責任は僕にある。

7.ストライキ解除とその後

 3月の学生大会でスト続行が決議されていたから、授業再開阻止、後期試験粉砕といった闘争は続いていたのだが、だんだんと、スト実の会合などは人数が減っていき、僕たちの軸だった政治学会のフラクションも人が集まらなくなっていったようだ。前年5月からの「阻止する会」の運動や自治会再建、11月の学費闘争の山場にいた者たちが疲れて離れていく者も出たのに対し、逆に、後から加わってきた「課題別」の者たちは元気があったようで、スト実の中心メンバーが入れ替わっていった。もちろん僕たちの「辞任」の責任もある。

 「差別告発運動」とともに、早稲田大学での川口君虐殺抗議、「早稲田解放」闘争と連帯しようという機運も高まったようだ。革マル派が文字通り大学当局と一体化し、無党派を含めた学生運動そのものを抑圧する体制に対する当然の闘争であった。革マル派が「当局公認」で作っていた自治会に代わり、新自治会、臨時執行部を立ち上げて彼らは闘っていた。

 そんな中、5月12日「早慶連帯集会」に向かうため、日吉3号館の中にいた学生30名を革マル派が襲撃、テロ。3名が負傷する。中庭には50名近くスト実メンバーがいたようだ。

 やがて、僕たちと代わったスト実、自治会の中心メンバーも一般学生や右翼FKCの圧力などに持ちこたえられなくなったのか、学生大会開催に踏み切る。

 6月11日日吉学生大会。スト解除が可決される。決議後、右翼学生が鉄パイプ、ゴルフクラブなどをもって壇上の執行部を襲撃、その後、深夜まで執拗にスト実メンバーを追跡して襲う。この時も、やはり、スト実有志は先に書いた2月に準備したゲバ棒を持って、記念館裏の部屋に部隊で待機したようだが、いた者の記憶では「雪隠詰め」状態になって出られなかったそうだ。
 前年12月からの、実に日本の学生運動史上最長と言われた185日に及ぶストライキが終結し、慶大学費闘争は敗北とされる。

 スト実は四散し、運動をやめるものも多かったが、活動家の一部はそれぞれ「課題別」戦線へ、あるいはセクトへと活動の場を移していった。
 僕の周り、つまり「情況派フラク」には10名くらいの活動家が集まっていた。中心は法律学科のS、文学部のY、経済学部のH(彼は理財学会横山委員長の副委員長だった)、そしてその後現在に至るまで長い友情を育む政治学科の五十嵐功だった。

 僕たちは、明大生田共闘、中大共産研他、他大学の「情況派」系、そして無党派の学生たちと都内のデモ、川崎の労働運動支援、あるいは三里塚現闘への泊まり込みなどに参加していたが、ゆるい結束だったのですぐに散ってしまった。
 まもなく「情況派」そのものが分裂、実質的に解体してしまう。僕は、路線・思想的には旧政治局を中心とした「遠方から」の人たちと近かったが、日常の交流は学生の部隊としていたから、政治局から飛び出した古賀(雑誌「情況」編集長)の「遊撃」グループへと色分けされた。ところが、こちらは機関誌「ボルシェビキ」の名の通り、いわば「純レーニン主義」で、さらに分裂していた第二次ブントの中共派まで含めた様々なグループと「合体」して行くに及んで、僕の考えとは全く相いれないセクトになっていった。到底「一緒に闘う」気になどなれなかった。で、それこそ「日和って」ゴロゴロ自宅で休んでいた。そんなところへ古賀から電話がかかり、雑誌「情況」の編集部に来いという話が来た。僕は五十嵐を誘ってその編集の仕事をすることになる。
 同じ時期、大学では、五十嵐から誘われてソ連研究の中澤精次郎教授のゼミに参加する。日吉での授業はつまらないもので出てもいなかったが、このゼミは自由で面白かった。教授も目をかけてくれて、いろいろな本を僕に薦めてくれた。新しい視野が開けるようだった。

 こうして僕の「学生運動」は終わった。

 ちなみに、一時は行動方針を巡って対立したこともあった横山淳とは、彼が解放派を抜け、進学塾を始める頃から、2008年に突然亡くなるまでよく付き合って飲んだものだ。息子の進学相談にも乗ってもらった。やはり解放派を抜け、その後精神科医になる三野進には、2015年、僕の「こころの相談」に乗ってもらった。

8.1960年代の慶大闘争を振り返る

 ここで、簡単に、以前の慶大で闘われた闘争に触れておきたい。特に、その「収束」の過程は、学園闘争の在り方を僕たちに突き付けていて、新左翼諸党派と僕たちの考えの違いも浮かび上がってくるようにみえる。

 まずは、65年学費闘争である。昔の話で、情報も限られているので、わかる範囲のことだけ書いておきたい。このときも新左翼セクトはすでにあったが、この学費闘争には関与していない。自治会を掌握していたのは構造改革派系の「共青」だったようだ。詳しくはわからない。また「構改派」といっても後のフロントなどとは関係がない。いずれにせよ彼らは執行部にあっていかなる党派色も出してはいない。
 1月、評議員会で次年度からの学費値上げ、塾債の発行が発表される。初年度入学金には「施設拡充費」を新設、最低10万円の塾債購入を義務としたから、初年度の納入金は従来の3倍になったという。
 全塾自治会(寺尾方孝委員長)は直ちに三田で抗議集会を開き、学生大会開催、ストライキ決議を提案、ビラ巻きなどを行っている。高村塾長は入院した。
 1月27日、日吉で授業放棄、28日には学生大会で決議、慶應義塾始まって以来と言われた全学ストライキに突入した。
このあたりの情報は三田図書館であたった「三田評論」に掲載された教授の「回想」に書かれていたことによっている。
 ストライキにあっては、明治大、早稲田大などの活動家から机の組み方まで「教えられ」、日吉、三田で「バリケード封鎖」が行われた。が、このバリケードは「シンボル」に過ぎず、毎日朝組んで夕方には全部撤去したそうだ。それでも、三田南門、幻の門(東門)、日吉並木道入り口を封鎖したので、授業に入る学生、教員は止められたようだ。
 自治会側要求は3項目。値上げ一時撤回・停止、大学と学生代表の協議機関を作る、値上げでなく、大学、学生一体の国庫助成の要求、で、交渉が続く。
 2月になり、4年生の卒業、2月初めの中等部の入試などの問題が討議されるようになる。特に、中等部入試は大学の問題ではなく、これを妨害したら刑事問題だ、と当局側は脅してきたという。

 2月4日深夜、三田会OBを通じて「妥協条件」の提案があると聞き、闘争本部が塾長の入院している慶應病院に向かう。妥協条件は、@塾債は強制を撤回、任意とする。A値上げはそのままやる。B今後、塾長と学生代表の協議の場を設ける。との3点だった。
 闘争本部はこの条件案をたたき台としてそのまま直接学生大会に提案する。これが「今まで積み上げてきた『下からのイシュー』としての闘争を壊してしまった」と当時の闘争本部リーダーは述懐している。ともあれ、2月5日、三田南門前広場において、全塾学生大会が開催される。日吉、小金井からも加わり、投票数は12,000を超えたという。
 自治会執行部でも闘争本部でもなく、今泉塾長代理が「塾債義務化撤回」など塾長提案を読み上げ、日吉からは反対意見が出たが、1時間以上の議論の結果、この妥協案は可決され、この時点で闘争は終結、バリケードは掃除して撤去される。10日間ほどのストライキであった。

 これが、一般塾生が主体の「自治会的民主主義」による、文連も含めた全学総ぐるみの闘いの結末だった。

次に書く、68年、69年のセクト主体の闘争とはまったく様相が異なっていたようだ。

    *

 68年、6月3日の朝日新聞は「米陸軍の資金による研究が日本の大学医学部でも行われており、慶應大医学部も含まれる」と報道した。ベトナム戦争中でもあり当然学生は反発、日吉では学生大会が開かれ、「米軍資金拒否宣言」を採択した。こうして「米軍資金導入」反対闘争が沸き起こり日吉は7月、「1日ストライキ」を行い、同月、全学バリケードストライキに入った。のち、複数回の理事会見、3度の永沢塾長会見が行われている。三田では数回「反対集会」が開かれている。

慶応 慶応

 (7月1日全塾総決起集会)
 (「フォト・アンガージュ」―全共闘運動私史― 撮影/川上照代 より転載)
 当局は米軍資金を「もう受け取らない」ことを宣言する。これは「米資導入」があったことを認めたことだ。だが結成された「全学闘」は「過去10年間に及ぶ米軍資金導入が自己批判されていない」とこの宣言を認めず、ストライキ闘争を続行する。
 この全学ストライキは11月まで5ヵ月の長期に及ぶが、その間、一回も学生大会は開かれていない。フロント、中核派、ブント・マル戦派、戦旗派の共闘による慶應「全学闘」が闘争主体で、自治会主体の闘争ではなかったようだ。(ただ、「共闘」とはいっても実際は各派ばらばらに行動、例えば中核派は10名ほどの部隊で医学部事務局を占拠、すぐ追い出されたりしている。ブント中心の他党派は塾監局を占拠、これも一般学生によってすぐ追い出されている。)右翼、一般学生は「スト反対」の潮流を形成、全学闘と対立した。右翼はさらに「話し合いを守る会」を結成し、ネーミングとは裏腹に全学闘の活動家へのテロを続けたそうだ。
 また、10.21国際反戦デーには、ブント系活動家は防衛庁に、中核派他は新宿に、それぞれの闘争に出撃している。

 先の「守る会」が署名を集め、その要求により、11月2日、日吉で学生大会が開かれる。日吉自治会、理財学会執行部を握っていたフロントは、この大会に、全学闘に諮らず、独自に「スト解除」案を提出、可決されてしまう。直ちに一般学生によってバリケードは撤去され、4日には授業再開となる。
 当然ながら他セクトは離反、全学闘は解体。「米資」闘争は終焉を迎えた。フロントは失速、中核派が伸張することになったようだ。

 一般学生と乖離した運動のそれが結末だった。だが、この「米資」の問題はとても深い問題だった。もともとこの米軍資金は「脳病を起こす寄生虫の研究」に出ている。これは細菌戦を見据えた「軍事研究」であり、戦前の731部隊(石井部隊)の人体実験を含めた研究からの歴史的継続性を持っていた。米資は新聞発表のとおり、「慶応大学を含む」大学に導入されていて、他には京大の名も出ていた。石井は京大出身であり、この人体実験のデータを戦後米軍に提供することによって追及を免れている。メディアも含め、これらをさらに解明、暴露すれば歴史的な闘争として記録され、なお勝利したと思われる。
 だが、当時を知るOBが語るには、一般学生は「米資導入は悪いことで反対」であっても、運動としては各党派が色々単独で動いているだけで、参加する余地がなかった、とのことであった。

    *

 69年、大学立法反対闘争は5月末の日吉学生大会でストライキを可決して始まる。スト賛成約2,400、反対約1,400とかなりの差をつけての全学バリストだったが、その後、やはり学生大会は開かれていない。つまり、初めにストライキを学生大会で可決したにもかかわらず、以後「学生大会」はなかったのだ。

 ちなみに「大学立法」とは、国公立大学では「紛争解決」のために1か月以内、学部、研究室を閉鎖することができる。文部大臣は紛争が9か月以上経過した場合、教育、研究の停止(閉校処置)ができる。閉校後3か月が経過しても収拾が困難な場合は廃校処置をとる。臨時大学問題審議会を設ける。休校中の職員給与は70%以内とする。というもので、もちろん、その年の1月18、19日の東大安田講堂攻防、入試中止を受けての、弾圧であった。

慶応 慶応 慶応

 (69年6・15統一集会に向けての慶大全共闘総決起集会 三田校舎)
 (「フォト・アンガージュ」―全共闘運動私史― 撮影/川上照代 より転載)
 スト期間中、8月には日吉、三田の研究室も占拠され、9月8日には三田の決起集会に機動隊が導入され、数十名が隣接するイタリア大使館に塀を越えて侵入、逃げようとしたが、機動隊は速攻で大使館敷地に入り、全員が逮捕されている。大学立法は8月17日に発効しているから、大学立法発効後はじめての機動隊導入であった。

 その後、各党派活動家はそれぞれ、10、11月「決戦」に投入され、キャンパスを空けてしまう。その隙を突いて、10月13日、機動隊を待機させた中で、教職員がバリケード撤去をはじめ、11月には右翼が勝手に(学生大会でなく)スト解除を宣言、闘争は「自然消滅」している。党派活動家にとっては「政治闘争」が優先であり、学園闘争は放棄してしまったようだ。

    *

 68年、69年の闘争は、65年のように自治会、多数の一般学生によって支えられることはなく、党派活動家の「突出した」闘争だったようだ。また、長期にわたって学生大会も開かず、一般学生の支持をとりつける努力もなされていない。東大闘争、日大闘争との大きな違いである。
 これは、68年、69年にあっては、先に述べた「全共闘運動」の皮相な解釈によって、「闘うものだけの結集」を、また、各セクトが前面に出てきて、「党派間共闘」を学園闘争の闘争主体にしたということで、一般学生との討論、その説得、闘争への動員などをはじめから問題にしていなかったように見える。一般学生は右翼体育会学生とともに闘争破壊に奔走している。当時の言葉で言えば「大衆運動」ではなかったようだ。「党派間共闘」内部で討議すれば、より「過激な」方針に方向が流れ、要求貫徹よりも「国家権力を引き出す(引き出してしまう)」方針が通っていくことは当時を知るものなら見当がつく。65年の「一般学生まで含めた」全学総ぐるみの闘争とは決定的に違う。
 どちらにしても「敗北」は敗北であることに変わりはない。だが、65年にあっては、評議員会で最終決定された内容を変更させ、「塾債の義務化撤回」と「事前協議制」というわずかながらでも「闘争の成果」を残している。(ちなみに塾債は1口10万円だったから、10万円の「値下げ」になる。結果、早稲田大など他の私大より慶應大は初年度納入金が安くなった。)対して、68年、69年の闘いは「敗北」という結果だけが残っている。大学立法粉砕、中教審答申粉砕などという方針が一大学のストライキによって勝利するはずもないが、「米資」闘争は、少なくとも「米資を今後導入しない」という宣言を当局から引き出しているのだから、そのあと「全学バリスト」だけでなく、長く続いていた医学部の根深い問題を暴露し、社会問題、社会運動としての「勝利」に結べたように思う。
僕は当事者でないので事情も知らず勝手なことを書いているだけかもしれないが。

 これらの議論は、闘った活動家を批判しているのではもちろんない。誤解があるといけないので強調したいが、僕は68年、69年の学園闘争、また政治闘争を闘い抜いた活動家たちを深く尊敬している。半端な決意では闘争参加など出来ない時代だった。大衆運動などといっても、まずは一個人としての自身が権力と対峙する覚悟がなければ闘争参加、まして「大衆」を説得することなど出来ない。だが、彼ら活動家を「指導」し、方針を出した各党派の指導者は評価することが出来ない。世界観、社会観、情勢の分析、また、彼らの「革命論」、組織・運動論の根本が間違っていた、と今なら僕でも言える。
 先にも書いたが、学園闘争にあって、党派間共闘で闘えば、常に「戦闘的」、「非妥協的」な意見、方針が通る。「突出した」闘いは出来るが全学的な支持は得られない。結果、必ず「負ける」ことになるが、彼らはこれを「革命的敗北主義」と呼んで学園闘争の「正しい」指導としたのだった。
 最近読んだ「時をこえて語る―大学闘争50周年回想集」に掲載された当時の慶應活動家の座談会ではこんな発言もあった。「慶應の授業料値上げ反対闘争は65年だが、その翌年に早稲田でもあった。授業料値上げ反対闘争が全学的に。学費値上げ反対闘争は65慶應、66早稲田、67明治、68中央と続き、中央大学では勝利します。学費闘争は基本的には条件闘争だけれど、最終的に突っ張って行ったら大衆が離れちゃうのは当たり前だと思っている。そういう意味で、68年にブントの主流となっていた塩見たちブント関西派の革命的敗北主義は誤りだね。中大闘争の最終局面で闘争の阻害物となった。」僕には、実に、我が意を得たり、である。学費・学館闘争に「勝利」した中大生に対して、関西ブント(後の赤軍派)は、「70年までの無期限バリスト」を主張、ブント他グループ、一般学生の厳しい批判と失笑を浴びた。

 勝手ついでに、少しだけ、日大闘争、東大闘争についても触れたい。68年6月に結成された日大全共闘の要求は、経理全面公開(不正経理発覚によって始まった闘いだから当然だった)、理事総退陣、検閲の撤廃、集会の自由、不当処分撤回であった。周知のように、9.30団交により、古田総長はこれら全要求を認め、広い会場を埋め尽くした学生たちによって拍手喝采が起こり、場内には紙吹雪が舞った。当事者の語りでは、ここで日大全共闘は解散してよかった。だが、これも有名な話しだが、佐藤首相の指示によってこの決定は翌日反故にされてしまう。要求はすべて認められないということになったのだ。全共闘は当然ここからいわば再スタート、バリケードを強化、「国家権力との闘い」としてさらに長い闘争を組む。

 対照的だったのが東大闘争で、大河内に代わって登場した加藤代表代行は、東大全共闘の7項目要求を(文学部処分を除いて)「実質的に」すべて飲んだ。医学部処分撤回、機動隊導入についての謝罪、他、さらに「今まで大学の自治とは『教授会自治』としてきたが今後は教授会、学生、職員全員の自治とする」とまで宣言した。首相といえども、この加藤代表代行に物申すことなど出来なかった。学生多数の支持を得ていた全共闘だったが、どんな方針、支持があったのか、この加藤提案を「全共闘の7項目要求を飲む」と「言っていない」と拒否、民青のイニシアティブのもとに、1.10妥結を一般学生まで入れてなされてしまう。周知のとおり、以後、全共闘は「党派間共闘」により安田講堂攻防戦を闘い、入試中止に至る。
結果、国家権力が前面に登場し、「大学立法」まで成立させてしまう。これを「権力を引き出した」などと言っていたらそれは自己満足にすぎないだろう。

以上、72〜73慶応大学学費闘争について書いてみた。今だから言える、ということも多いが、僕自身の考え方は基本的に変わっていない。
(文中の敬称は略した)

 僕の知らなかったことについては、72〜73学費闘争のことは数名の同世代OB、友人から聞いた。また、当時の「慶應塾生新聞」に負っているところも大きい。
65年学費闘争、68、69年の米資、大学立法闘争については、椎野礼仁氏(1969年文学部中退)に、(また、椎野氏は現在日吉文学部の学生運動についての書籍を準備中の金井広秋氏に事実関係の確認をされている) そして、2018年発行の「時をこえて語る―大学闘争50周年回想集」(置文21)に多くを負っている。
 図書館で、当時の新聞をあたり、また三田の図書館にも行って調べたが、とにかく学園闘争、特に慶應義塾大学については資料と呼べるようなものはほとんど残されていない。

 勝手なことを書いてしまったが、書き残しておくこと自体が大切、という思いだけで書いたものである。
(終)