「知られざる学園闘争」への寄稿(新潟大学)1
令和2年11月1日
佐藤純一
「続・全共闘白書」は、企画段階ではアンケート協力を求める際に、出身高校・大学の闘争経過も掲載をする予定だったと聞きます。しかし、450名を超えるアンケート回答が寄せられ、ページ数の関係でアンケート回答のみを載せて、各大学・高校の闘争経過を載せられなかったため、何らかの形で公開する必要があるという結論になったということでした。
東大・日大闘争などは多くの出版物がだされ、広く知られていますが、その他の大学・高校の闘争がどのようなものだったのか、知られていないことも多いと思います。自分達の闘争がどういうものだったのか、記録に残して、後世に伝えるのも私たちの世代の責任ではないかと思います。
新潟大学側の当事者からの発言は、新大広報No.133(1999.9)「創立50周年記念特集号時代の証言」1)に幾人か記載されていますが、学生側の発言はほとんど残されていません。雑誌には、江川弘氏が2報、中央公論や朝日ジャーナルに掲載されていますので参考にしました2、3、4、5)。私も当時の資料を保管していなかったので、地元紙・新潟日報の記者が書いた「新潟日報」の記事6)を検索して、「新潟大学統合移転闘争」がどういうものだったのか、統合移転の問題以外の周辺の記事を含めて調査をしてまとめてみました。その他に、統合移転問題について講演をした伊藤学長の発言が載っている新潟大学学報号外7)も参考にしました。
まず最初に1965年〜1968年を取り上げたいと思います(年譜も参照)。
1.昭和40年3月2日(1965)
伊藤学長が大学本部で記者会見を行い、大学の統合移転先として新潟市五十嵐二ノ町が正式に決まったと発表。またこれまで問題とされていた教育学部長岡、高田分校も新潟本校に統合する方針を明らかにした。昭和40年2月24日、新潟大学評議会が、新潟市五十嵐地区に統合移転を決定。
2.昭和40年3月3日(1965)
高田市議会新大対策特別委(間瀬喜代治委員長)では3日、「上越住民をあげて反対運動を展開する」との態度を決めた。小山高田市長も2日の記者会見で「本校統合は暴挙に等しい」と決めつけた。
3.昭和40年3月7日(1965)
塚田知事は、塚田事務所で記者会見を行い、次のように述べた。新大の統合問題はむずかしい問題だが、私は今回の学長発表は解決への1段階とみている。私個人の考えは「新潟にあるものだけを統合すればよく、長岡や高田にあるものを統合する必要はない。新大問題は教育問題であると同時に政治問題だ。
4.昭和40年6月(1965)
大学当局は41年度概算要求として12億円(土地買収費5億円、第一次第一期工事建設費7億円)を文部省に提出。9月に入り、概算要求が文部省より大蔵省に送られなかった旨が連絡されてきた。これは、高田を地盤とする自民党田中彰治代議士が干渉したため、当時の自民党田中角栄幹事長が中村文相と相談をして、この予算に保留の線を入れたものであることが判明。9月16日の定例評議会では、この事態を乗り切るために、@予算獲得技術として、統合計画第一次第一期予算としてでなく「教養部予算」として切り離して要求していくA「見送り」が政治家の干渉によるものである以上、今後は予算獲得のために政治家に対する交渉を重点的に行っていく、という方針を確認。
5.昭和40年9月22日(1965)
新潟県選出衆院議員・稲葉代議士が稲葉私案を提示。
@高田分校、長岡分校は新潟大学へ統合する。
A長岡には、工学部統合のあとに独立の工業単科大学を設置する。高田には教員養成大学を設置する。
B新潟大学の統合は方針通りに行う。
6.昭和40年12月28日(1965)
稲葉代議士が新潟県選出の自民党衆参両議員、坂田自民党文教調査会長、新潟県君副知事、新潟、長岡、高田の三市長と協議の結果、
@新潟大学を新潟市五十嵐地区に統合し、総合大学として整備する。
Aさらに長岡に工業大学、高田には教員養成大学を設置する。
という要望書が自民党政調文教部会長に提出されたので、文教部会として新潟大学の意向を徴して審議を進めたいので、1月10日までに文書回答されたいと要請あり。
これに対し、新潟大学はS41年1月6日に評議会を開き、取り扱いについて種々検討の結果、要望書第1項については、「本学の既定方針に沿い推進願いたい」。第2項については「政府の施策によるところであり、本学としては特に意見を述べることは差し控えるべきであるが、第1項の完全実施を阻害しないよう強く要望する」を骨子として学長に文案を一任。
※タコ足大学の弊害を克服し、新潟大学を真に総合大学として機能させるための最低必要条件として全学部を一か所に統合されるための運動は昭和40年より始まっている。統合問題は、新潟大学だけの問題ではなく、教育学部分校や工学部のある高田市や長岡市の地元の利害も絡む問題でもあり、移転反対の運動も起こり、新潟県内の政治問題でもあった。その当時は、新潟県内には、国立大学は新潟大学しかなく、4年制の私立大学はまだ存在していなかったと思う。高田市や長岡市にとっては、どうしても地元に大学を残したいという希望があったものと思われる。そのような背景があって、「稲葉私案」が出された。統合移転問題は、学長・評議会・事務当局の間で事務的・行政的に進められてきたが、昭和40年の第7回大学祭の統一テーマは「新潟大学の躍進はどこにー統合移転のヴィジョンを求めて」にすることに決定し、伊藤学長から「新潟大学の未来像の展開」という演題で講演を行ってもらった。この講演によって、統合移転計画を学生の前に公開し、それをめぐる論議を呼び起こすことにした。大学祭の成功を基礎として、恒常的組織として、教育学部、人文学部(後に医学部、歯学部自治会も加入)、教育学部長岡分校の各自治会、生協、新聞会、教員養成制度研究会により「統合移転問題全学協議会」(全学協と略称)が大学祭直後の6月26日に発足した。
※「稲葉私案」は外部の政治的介入であるとして、全学協を中心に反対運動が起こり、10月1日に開かれた教育学部教授会に対して、教育学部自治会は大衆動員をかけ、声明文を読み上げた。教授会での傍聴は認められなかったが、この要請文は、教授会開始の前に全教授の面前で読み上げられた。学生が廊下に待機の中で教授会が開催されて、白熱討論の末、記名投票の結果、高田に教員養成大学設置反対(実質的に「稲葉私案」)反対17、稲葉私案に賛成11(主として高田分校の教授)、白票1で、「稲葉私案」を承認しなかった。他の5学部はわれ関せずという態度をとったが、理学部教授会の「稲葉私案」反対決議は、教育学部教授会と学生にとって大きな励ましとなった。最終決定のための臨時評議会が開催され、全学協は大衆動員をかけて、4項目を要旨とする要請文を作り、学長団交を行った。評議会席上での学生の発言は認められなかったが、要請文を学長が読み上げることになった。評議会は30分余という異例のスピードで次のような結論を下した。「新潟大学としては、統合移転計画を既定方針どおり早急に実現すべきであり、また、高田市に私案と同種の教員養成大学を設置することには相当な異論がある」。婉曲な表現で「稲葉私案」を拒否したことになった。12月に入って、自民党文教部会グループ、文部省、県の政治家22名が懇談会を持ち、9・22稲葉私案の線を再確認して大学に働きかけたが、大学は昭和41年1月評議会を開き、10・4と同じ結論を下した。
7.昭和41年1月(1966)
昭和41年1月、12億円のうち土地購入費1億円だけが認められた。1億円が復活した裏には自民党田中幹事長が動いていた。田中幹事長は1月12日、高田、長岡、新潟3市長を自宅に招き、@統合促進A長岡に工業大学設置B高田に教育大学設置の私案を提示、了承を求めた。とにもかくにも、実現した1億円予算を基にして大学当局は土地調査を開始。
8.昭和41年9月初旬(1966)
その1億円の執行の一次ストップが文部省から通告された。その原因は、高田市の地元選出代議士を先頭とする反対運動が効を奏した。高田分校拡充期成同盟(会長小山高田市長)は1億円執行に鋭い反対運動を展開。本学統合計画の推進に多大な支障をきたした。
9.昭和41年9月27日(1966)
亘知事は9月27日午後、新潟市のイタリア軒で小山高田市長らと会い、新潟大学教養部の建設用地買収執行の必要性を強調するとともに、教育学部の統合問題については当分、タナ上げすることを提案、了解を求めた。これに対し小山市長は即答を避けたが、亘知事としては大学の現状から統合問題とは切り離して用地買収の執行は当然との考えに立ち、事態の前進的解決を図りたいとしている。
10.昭和41年10月24日
亘新潟県知事が、新潟県にある新潟大学が地方の総合大学として立派に充実し、発展してゆくことは知事としても当然考えなければならない。そういう面で協力をして、教養部関係の1億円の予算執行を促進したいとの趣旨を述べられ、知事からの斡旋の「亘私案」が大学に提示された。昭和41年10月17日評議会を開催し、「亘私案を了承して、今後とも知事に協力を要請する」との結論を得た。10月24日亘知事が「亘私案」を発表した。
@新潟大学を統合整備し、充実せる地方の総合大学として発展せしめる方針を堅持する。
A統合の全面実施は、高田及び長岡両地区の教育施設整備の方針が決定されるまで留保し、この間両地区の大学施設はこれを廃止しない。
B新潟大学の教養部校舎は、統合問題と切り離して早急に整備する。その際図書館、体育館、講堂など併せ新設する。
※「全学協」は次の3点より「亘私案」撤回の猛反対に立ち上がった。
@外部政治勢力の介入によって、国家予算が政治家によって私物化され、大学当局が何らこれを批判せず、予算獲得には政治家と協力するより他ないとして、大学のことは大学で決めるという自治の原則を自ら投げ捨て、政治家が移転統合の内容に干渉する道を自分たちの手で作った。
A「亘私案」の内容は、総合大学への方向に逆行する。全学部移転の保障がどこからも与えられていない現段階で教養部移転を統合問題と分離することは危険である。より重要なのは「統合の全面実施は、長岡・高田の教育施設整備の方針が決定されるまで留保」という項である。教育学部の同時統合は新潟大学の大方針であり、「高田・長岡の教育施設」云々に左右されるのは基本方針からの大後退である。更に高田市に「教員養成大学新設期成同盟」が結成され、亘県知事の会長就任が予定されている。新潟大学新聞会に、高田市当局が「高田は亘私案の前提として義務教育系大学の高田設置があったので私案をのんだ」と言明。
B学長と評議会が外部からの大学の自治の侵害を許したばかりでなく、かかる重要な問題を学生・職員・教授会にもはかられず、報告もないという非民主的方法によって、大学内部の民主主義を破壊した。
11.昭和41年11月16日(1966)
学長の全学講演「新潟大学統合計画と展望」が企画された。「全学協」の学生は、学長にに対して自治の破壊と全学的に一致している統合の基本方針変更の責任を追及。学長は「もし亘私案が義務教育教員養成大学の設置を含むものなら、新潟大学の統合方針を侵すものであるから拒否する」と言明した。「亘私案」の内容が、「全学協」の分析した通りのものであることが、全学協の情報収集であきらかとなり、12月22日学長は「全学協」との会見で「私案撤回」を約し、その直後の評議会にも図り、亘知事にもその旨通告した。
※「稲葉私案」「亘私案」は、新潟大学の統合基本方針に抵触したことから、学生たちの活動によって撃退することが出来た。
※予算獲得問題と並び、それ以上に重要な問題は、容れ物としての統合プランのアウトラインはある程度できあがり、それに基づいて予算要求が行われているが、その中味の問題が全く曖昧にされていることである。青写真作成のための統合整備計画委員会はほとんど開かれず、移転年次の長期的構想は練られておらず、統合する意義は未だに不明確であり、「総合大学とは何か」「現代における大学の役割」などに関する全学討議に基づく意思統一は行われていない。学長ら最高首脳は、キャンパスさえ統合すれば何とかなる式のやり方で、これらの問題を一度も問おうとしてこなかった。※統合とは単に各学部が一か所に寄せ集まることではない。学問研究の内的関連を保障し、学問研究の発展のために有機的に構成されることが、統合の積極的な意義であるとするならば、それをもたらす総合大学の教育内容、形態、大学内制度、自治機構のあり方、教育環境、厚生施設設備などの問題こそ真っ先に問われ、決定され、全学的意思統一を達成すべき課題であった。そのためのイニシアティブがどこからも取られていなかった。「いかなる大学を作り上げるのか」について、学生こそが全学的大討論を巻き起こす主導力とならなければならなかった。
※第8回大学祭は、「大学の危機とわれわれの方向―新潟大学を真の総合大学に!」を統一テーマとし、「全学協」のイニシアティブの下で多彩な企画をした。人文学部の改組拡充、講座問題解消の諸プラン、教育学部の教員養成制度改革のプラン、統合の中に位置づけられる生協の学内厚生行政一元化構想、歯学部の病院設置の要求、教養部革新のための「総合コース」「総合科目」のプランなどいくつかのプランニング作業が行われた。
12.昭和43年6月15日(1968)
ベトナム反戦などを訴える新大生デモ行進(約130人)は、午後1時過ぎから行われたが、県警機動隊と激しく衝突し、学生3人を妨害″で逮捕した。この事態で学生側は「即時釈放」を求めて中央署前にすわり込んだために、当局はゴボウ抜き″を断行。騒ぎは夜になっても収まらず、学生たちは炊き出しを食べながら夜遅くまで抗議を続けた。3人の逮捕者を出した新潟大学の山内学長は16日、工藤県警本部長らに逮捕者の釈放を要請するとともに、警備に行き過ぎがあったとし、今後十分に注意してほしい旨申し入れた。新潟中央署から身柄送致を受けた新潟地検は午後10時過ぎ「これ以上身柄を拘束する必要なし」として3人を釈放した。この間、新潟大構内では、日曜にもかかわらず、教養部704番教室に約70人が集まって抗議集会を開催。ベトナム反戦デモをめぐり、工学部教養自治会を中心に、17日午後零時半から学内で全学抗議集会を開催した後、2時間半にわたり新潟中央警察署前にすわり込んだ。一時は緊張した空気に包まれたが、機動隊とのトラブルは起きなかった。全学抗議集会は、教育学部前正門広場で開かれ、約500人の学生が午後の授業を放棄して参加した。集会には釈放された3学生も姿を見せ、次々に逮捕された当時の模様を報告。集会決議として、「こんどの逮捕は不当である」「警察は、学生に謝罪せよ」−を決めたのち、約400人が新潟中央署前にすわり込んだ。桜井署長との面会を要求した。学生たちは2時間半後に正面脇に場所を移動。竹内部長に付き添われた代表5人が桜井署長に会って抗議した。このあと、学生側はジグザグデモを行い、午後6時過ぎ学内に引き上げた。
13.昭和43年6月23日(1968)
上越PTA連合協議会(小倉宜義会長)は23日午後零時半から高田市城北中に父兄ら約2000人を動員し、「義務教育教員養成大学設置総決起大会」を開いた。新大統合計画が打ち出されて以来、それに代わる義務教育教員養成大学を上越に設置しようと運動を続けてきたが、見通しが暗くなったため、子を持つ親たちが一致して打開してゆこうというもの。大会には、塚田、猪俣の地元選出国会議員をはじめ、関係者ら約200人も出席。
14.昭和43年6月24日(1968)
ベトナム反戦デモをめぐる新大生3人の逮捕事件で対して「官憲の不当弾圧反対」を叫び、新潟中央署に謝罪を要求していた新大生は、24日夕刻から学内で2度目の不当弾圧反対全学抗議集会を開催し、新潟市内をデモした。この日の集会は、午後5時から教育学部前広場で開かれ、授業を終えた学生たち700人が集まった。まず工学部教養自治会など参加各団体から、今度の逮捕事件について自治会としての見解が述べられたのち、抗議デモのあり方について意見を集約、シュプレヒコールを叫びながら教育学部前―東中通りー柾谷小路―鍛冶小路―教育学部前の順路で市内デモ行進をしたが、機動隊は姿を見せず、トラブルはなかった。
15.昭和43年7月5日(1968)
「新大統合問題で、山内学長は学生との大衆団交を開いて大学側の方針を説明せよ」と要求して、7月5日午後2時から、本部2階会議室で、学生たちの要求の取り扱いを協議していた学生部協議会の教官、職員約15人は会議室に缶詰め状態となっている。会議室前にすわり込んだ学生約60人は、6日朝になってもすわり込みを解かず、あくまでも学長との大衆団交を要求している。工学部教養自治会、生協を中心とした学生数十人(構造改革派)が、7日夜から本部を占拠、8日午後、本部事務局長名で退去通告が出されたが、学生は依然として立ちのこうとしていない。本部が学生によって完全に占拠されたのは開学以来初めて。学生側の要求は、
@学長は全学生と会えA教育学部教授会が決めた高田分校に2つの特設課程を増設する計画を撤回せよB工学部の本建築計画を白紙に戻せC医学部の学士会館計画を撤回せよD全学の意思が一致するまでこれらの計画を凍結させ、全学部がすっきりした統合を実現させるよう努力せよ・・・など。5日に開かれた学生部協議会、評議会の回答が不満だったとして、学生側は5日午後から学生部協議会の教官、本部職員を7日早朝まで本部内に缶詰め状態にした。その後、一旦軟禁状態を解いたが、再び7日午後10時頃から机、いすでバリケードを作り、本部内に立てこもっている。本部を占拠した学生は全学生約五千人のごく一部。現在、各学部のクラス討議が開かれており、全学生に支持されるかどうかはここ一両日中がヤマとみられる。
16.昭和43年7月9日(1968)
新潟大の統合問題をめぐる紛争は、工学部教養自治会、生協を中心とする学生たちが、本部を完全に占拠してから9日まで3日目に入ったが、学生たちは占拠体制を解く気配を全く示さず、本部機能は1日中マヒした。事態を重視した山内学長は、大学評議会の決定に基づいて、9日「一部の学生が、不法に大学本部を占拠し、大学業務の正常な執行を阻止しているのは残念である。本部を占拠中の学生は、業務の執行を正常な状態に戻し、一般学生にも大きな迷惑を及ぼしている事態を一刻も早く解消するよう、すみやかに退去せよ」との学長告示を本部前に掲示した。また、学生部協議会も竹内部長名で告示を各学部に貼りだし、学生たちに自重を求めた。これに対して、本部を占拠している学生たちは、要求に対して大学側がはっきりした回答を出さない限り、本部から退去しない態度を固め、クラス討議で明日11日から始まる夏休み後も、大学に登校して運動を盛り上げようと呼びかけた。これとは別に人文、教育、農、医などの学生約500人は、9日午前11時過ぎから人文学部前広場で集会を開いた後、学部毎に各学部長と会見し、統合移転計画に対する教授会の考え方をただすなどの動きをみせて、どの学部もほとんど授業が行われなかった。
17.昭和43年7月12日(1968)
統合をめぐる新大紛争は、学生の大学本部占拠が既に1週間にも及び、事務機能がマヒしたまま解決へのきざしを見せていない。局面打開のため、教養部は7月12日教授会を開き、「44年度教養部移転は、全学統合の前提が確定されているとみなし得ない状況では行わない」と決議。この状況″を判断する資料として、各学部に「統合移転への具体的態度を10月15日までに表明してほしい」と次の要望書を作成した。
1)人文学部は何年度に統合の概算要求を出し、何年度に移転するのか。
2)教育学部は@5月13日の答申による高田分校の特設課程新設が、分離、移転につながるとする疑問に答えよA同答申中、長岡、高田分校の教養課程を新潟に集中するとあるが、その具体的計画は。
3)工学部は今後の移転の見通しについて明らかにせよ。
4)医学部は学士会館の建設を、統合先の五十嵐地区か現大学敷地以外に求め、統合の姿勢を示されたい。
5)医、歯学部は現在進行あるいは計画中の新校舎建設が、どのように位置づけられるのか明らかにせよ。これらの公開質問状″は、「最近各学部の姿勢には、統合への熱意を疑わせる動きがあり、返答次第では、来年度の教養部移転は中止する」との強い糾明の意向を表明したもので、かねて統合の推移にモヤモヤを感じていた教、職員間には、学生の主張を判断するうえでも、現状認識の明確化を図る意味でも教養部のこの問いかけを歓迎する空気が濃い。
18.昭和43年7月16日(1968)
統合問題をめぐって紛争中の新潟大では、7月16日評議会を開き、学生騒動に対処する初めての具体策を決定するとともに、同日午後6時半から山内学長が記者会見で発表した。
@全学統合の基本方針を堅持し、本学の総合的発展を期すために、前進的解決の方向で、各部局の当面する諸問題を「統合整備計画委員会」で早急に取りあげ、9月以降の評議会で決定する。
A統合を進めるにあたっては、学生の意向も反映するよう、じゅうぶん考慮する。この方針は即日学長名で全学部にはり出され、10日間にわたる本部占拠学生に対しても、大学の誠意を認めて、退去するよう呼びかけた。大学側の説明を総合すると、@については既に教養部教授会が指摘しているように、統合推進に反するような学部方針がある場合は、さらに学部に再検討を求めようというもので、来年度概算要求にも変更があり得るとしている。A学生意見の反映機関として、どのような場を設けるか、学生部協議会に諮問しているので、その答申を待って具体策を検討するという。 この収拾策について学生側は受け入れて本部占拠を解くかどうか協議した。この収拾策では抽象的でつかみにくいとする意見がかなりあったため、結論が出ないまま各学部長団との話し合いは午後11時半に打ち切った。
19.昭和43年7月18日(1968)
移転統合のあり方に反対して新大本部を占拠した学生たちが、ようやく17日夜にバリケードを解き、同本部は18日から平常業務に戻った。11日ぶりにバリケードが解かれた。
20.昭和43年9月7日(1968)
学生たちが「大衆団交」を要求している新潟大では、9月7日午後、同大人文学部会議室で竹内公基学生部長ら大学側と人文、理、教育、工学部教養自治会の学生約30人が話し合い、竹内学生部長から6日の同大評議会の意向が伝えられた。学生たちは強い不満を示し「権利としての交渉を認めよ」と迫った。学長団交問題を協議していた学生部協議会は、5日@学生のいう学長との大衆団交″は大学主催の説明会ということで開催し、開催時間は約3時間、開催場所は学内のグランドとするA説明会には学生の質問を認め、かなりの時間を当てても良い。Bこの話し合いの形式が成功したら、2回目の開催も考えるーの方針をまとめ大学評議会のこの案を示していた。
21.昭和43年9月19日(1968)
19日未明、大学側の計画を手ぬるいとする急進派の学生約10人が、新潟市西大畑町の理学部本館を封鎖したが、駆けつけた同学部、教養部の教官約30人によって、約3時間後に解除された。
22.昭和43年10月24日(1968)
新潟大学の鈴木保正教養部長は、工学部教養部自治会の学生に、人文、教育、工、医、歯の5学部が統合移転問題にどのような態度を表明しているかーを回答した。▽人文学部(同学部は今年度、移転に伴う概算要求を見送っているが)来年度は要求を提出するよう努力する。
▽教育学部(同学部は、5月13日の教授会で、教養課程″を来年度の新入生から新潟地区に集中するかわりに、高田の教育特設課程を現在の2課程から4課程に増設。新たな国立芸能単科大学がもうけられるまで、それを高田に存置する”との決定を行い、問題となっていたが)それら特設課程は、適当な時期が来れば新潟に吸収され、伝えられる分離統合の形はとらない。
▽工学部(同学部では、土木工学科の校舎新築問題をめぐり”鉄筋コンクリート建てにするのは、全学統合の方針に矛盾する”と批判されていたが)これは鉄骨プレハブ構造で新築することに決定した。また新潟へ移転する時期については、大半の教官が来年度にでも概算要求を出すべきである、と考えているが、いろいろ困難が予想されるので、新設の工学部統合移転促進委員会で問題点を検討、早期移転に努める方針。
▽医学部問題となった学士会館建設計画は、統合計画推進の障害とならないよう、医学部長が学士会側と話し合うことになった。その結果、同会館が医学部構内に建てられることは中止される見込みである。また病院、研究施設の転用が問題視されているが、これは学部卒業生の研修、教育施設に転用、学部校舎は五十嵐地区に新設する計画である。
▽歯学部医学部と行動を共にする。
23.昭和43年11月1日(1968)
新大統合移転計画の第2号に予定された理学部校舎の設計図が11月1日完成。
24.昭和43年11月7日(1968)
新潟大学教養部は、11月7日午前9時から新潟市の日報ホールで全体集会を開き、さし迫った同部の移転問題で、学生と意見を交換した。教養部は、同大統合移転計画の第1号として、来年4月には新潟市五十嵐浜への移転が予定されており、討議は3時間余にわたって続けられた。学外でこんどのような集会が持たれたのは今回が初めて。集会には約700人の学生が集まった。両者の意見は一致せず、
@9日に改めて全体集会を開いて話し合う
A教養部が移転に対する最終的態度を決定する20日までに、学長、評議会、統合整備計画委員会、各学部教授会を対象とした全学集会の実現を要求するーなどを決めて散会した。
25.昭和43年11月12日(1968)
新潟大学教養部の第3回全体集会は、11月12日午後5時から同大人文学部40番教室に約30人の教官と学生約300人が集まって開かれ、統合移転問題を論議した。学生はこの席で、教養部移転問題は「学長、評議会、統合整備計画委員会を相手とした大衆団交で決めるべきだ」と要求、会場は終始緊張した空気に包まれた。この日の集会では、同部の移転問題をどういう方法で取り扱うべきかが焦点となり、学生側は学長、評議会、統合整備計画委員会との大衆団交を開いてこれを確認せよと詰め寄った。これに対して一部の教官から「教養部の移転決定問題は、もはや教養部だけで決められる事態ではなくなった」とし、「その前に大学最高機関を対象とした全学集会を開くべきだ」という意見も出されたが、大衆団交による決定には、ほとんどの教官が反対の意向を示したため、学生の意見と鋭く対立、会場には緊張した空気がみなぎった。
26.昭和43年11月22日(1968)
新潟大学で、22日までに教養部8クラスの学生がスト権を確立。スト権を確立したのは、工学部教養自治会6クラスと医学部進学課程1年2組と2年1組。工学部教養自治会の要求は、
@学生の意思を受け入れず、しかも全学統合の保証がない現計画の粉砕
A教養部移転、理学部の着工阻止
B計画の全学的、全面的再検討
C学長、評議会、統合整備計画委員会を対象とした全学大衆団交開催。
医学部進学課程1年2組、2年1組はそれぞれ、全学大衆団交の開催。中心の工学部教養自治会では、要求が通らなければ、25日からスト決行を決めており、大学側は、22日午後1時から学外で学生部協議会を開き、学生の要求にどう対処したらよいか検討した。
27.昭和43年11月25日(1968)
新潟大学の工学部教養自治会は、きょう25日からスト決行。新潟大学教養課程の新潟市五十嵐浜への移転阻止、理学部の着工阻止、全学大衆団交開催ーなど4項目を掲げている同大工学部、教養部の学生は25日午前8時半頃から予定通りストに入った。9時頃から人文学部前広場で開かれた集会には、1限の授業をボイコットした学生たち約120人が参集、スト決行の意思確認、今後の闘争方針を討議。一方これとは別の全学自治会共闘会議も@統合移転計画の全学的民主的再検討A全学自治会、各学部協議会を設けて大学を民主化せよーなど7項目の要求を掲げ全学生にクラス討議を呼びかけた。午後からは新潟大学教養部医学進学課程2年1組の学生が、工学部に同調、ストライキに突入した。このほか同学部進学課程の全学生が終日授業をボイコット、ストは広がる気配をみせた。医学部自治会執行委員会は@工学部教養自治会のスト全面支持A大衆団交要求B全学集会での教養部移転決定、のアピールを決めた。
28.昭和43年11月26日(1968)
「看護婦の夜勤月8日と複数夜勤制」を要求して来月1日から実力行使に突入することを決めている(23日スト通告)新潟大職員組合医学部分会(中村分会長)は、26日午後4時から山内学長と初の団交を開いて回答を迫った。これに対し山内学長は@看護婦増員に関する年次計画書を一両日中に組合側に示すよう付属病院側に指示した。A居残り解消のため、非常勤の臨時職員を採用したいーなどの方針を明らかにしたが、組合側は「増員問題の回答にはならない」としてさらに具体案を要求。学長が病院側が示す問題"という態度を変えなかったため、1時間半で交渉を打ち切った。
29.昭和43年11月27日(1968)
教養部の五十嵐浜移転をめぐり、同部の学生が無期限ストを決行、混迷を続けている新潟大学で、27日、この問題を全学的立場で話し合うという全学教官会議が結成された。教養部の現状説明を中心に話し合いが進められたが、統合整備計画委員会や学部教授会など、大学の正式機関では聞かれない教官のナマの声も多く述べられ、有意義だったとして、今後も全学教官会議を継続させることになった。大学のあり方や、既成の大学機構が問題となっている中では、まさに画期的とされる同教官会議には、教養、人文、理、農、工、医、教育の7学部から百人以上の有志教官が集まって、同日午後6時から開かれた。
30.昭和43年11月27日(1968)
新潟大学で27日夜、大学側の統合計画に反対する工学部教養自治会の学生たちが、教養部プレハブ校舎の704番教室を占拠して闘争本部を設けた。
31.昭和43年11月28日(1968)
新大医学部付属病院の看護婦夜勤改善闘争は28日夕方開かれた最終団交で組合側、病院側の話し合いが最後までつかず、組合側は既定方針どおり12月1日から組合ダイヤ″によるスト体制に入ることになった。国立大学の付属病院がストに突入するのは新大病院が初めて。
32.昭和43年11月30日(1968)
11月30日、歯学部進学課程1年生が、無期限ストに突入した。
33.昭和43年12月1日(1968)
新潟大学では、きょう12月1日にも、学長、評議会、統合整備計画委員会と教養部教授会のメンバーによる会合を開き、全学集会開催の問題で、意見を交換することになった。教養部移転決定問題で、教養部教授会は、学生たちとの間に3回にわたる大衆団交″を開いたが、平行線に終わり「納得のゆく移転決定を行うためには、全学集会の開催以外に方法はない」と大学側に同集会の開催を要請。これに対して大学側は「いまは時期が適当でない」として、教養部教授会に「まず移転を正式決定せよ」と要請。全学集会の開催をしぶってきた。
34.昭和43年12月1日(1968)
全学統合紛争で無期限ストを続けている新潟大学教養部の一部学生が、1日夜9時過ぎ新たに教養部プレハブ校舎の一部を占拠(705番教室)。
35.昭和43年12月2日(1968)
医学部進学課程1年2組が2日からストを決行、人文1年B組、理学部1年2組がスト権を承認。
学生側は2日、人文、理、教育の3学部学生自治会で組織している全学自治会共闘会議が、教育学部前広場で集会を開き、3つの対応点7項目の要求を掲げて一般学生に移転問題について呼びかけた他、医学部、歯学部進学課程の学生が、大学側に大衆団交の開催を要求して学内デモ行進をした。
36.昭和43年12月6日(1968)
新大付属病院の看護婦増員闘争が解決した。実力行使6日目の午前5時半過ぎ、深夜12時間にわたる労使の話し合いは「1人夜勤はなくす。複数夜勤、月1人平均8日を3年計画で実施するよう努力する」という点で一致。ほぼ組合要求通り妥結した。
37.昭和43年12月11日(1968)
新潟大学では、先月25日から工学部教養自治会の学生が無期限ストにはいっていたが、10日開かれた人文学部の学生集会でもスト権が確立。きょう11日の1限からストにはいる。学部全体がストにはいるのは同学部が初めて。
38.昭和43年12月17日(1968)
新潟大学で16日、教育学部の学生がスト権を確立した。スト(無期限)は、きょう17日から決行される。学生たちの3項目要求は@統合問題の全学的民主的再検討A全学協議会、学部協議会を設置せよB以上の要求実現の保証がないままの教養部移転、理学部着工阻止。そのための大衆団交要求となっている。
39.昭和43年12月17日(1968)
新潟大学では、17日、全学集会準備会大学側委員が、21日午後1時から新潟市公会堂で同集会を開催する、との方針を決定した。大学側が、大会準備会委員の名前で、全学集会の開催を決めたのは、教養、人文、教育の3学部学生が無期限ストを続けている事態を収拾、来年4月に予定されている教養部移転をスムーズに行うためには、早急に全学集会を開いて全学の学生、教官、職員全員に理解を求める必要があると判断したためとみられる。
40.昭和43年12月20日(1968)
新潟大学の全学教官集会第4回は、20日午後6時から新潟市小金井町の同大農学部で開かれ「統合移転計画は全面的に再検討すべきである。再検討は全学的な意思の形成が可能な全学的協議の場で行われるべきである」との決議案を採択した。
41.昭和43年12月21日(1968)
新潟大は21日、紛争中の国立大では初の全学集会を開く運びとなったものの、学生側の強力なピケによる反対で流会となった。
〈参考資料〉
1)長崎 明、猪 初男、宮村 定男
新大広報No.133(1999.9)「新潟大学創立50周年記念特集号」P4〜P8
特集・・・新潟大学の50年をふりかえる時代の証言
2)江川 弘
現代の理論4(5)、38-50、1967
大学の創造と学生の運動―新潟大学統合問題を例としてー
3)江川 弘
現代の理論5(8)、42-47、1968
報告2 新潟大学統合移転闘争と自治革新
4)中央公論編集部
中央公論臨時増刊83(12)、229-232、1968
特別調査全国紛争大学を行く「新潟大学」
5)朝日ジャーナル10(41)、7-8、1968
「学部エゴイズム」千々に乱れる移転問題新潟大・東京教育大
6)新潟日報 朝刊・夕刊記事(1965-1968)
7)伊藤学長全学講義要旨
新潟大学学報号外昭和41年12月1日
本学統合計画の推進