日時:2021年9月11日 PM
会場:東京・お茶ノ水「祭」
インタビュアー:個人史記録プロジェクト・メンバー
荒岡、石橋、伊東、田中、山中
参考文献:『かつて10・8羽田闘争があった』(2018年合同フォレスト発行)
『大学闘争70年安保へ』浜口タカシ写真報道(1969年雄山閣出版発行)
『全国学園闘争の記録V』(1969年日本評論社発行)
〇問(荒岡) 本日は、ありがとうございます。
今2人で話をしていて、我々、松井隆志さんの寄稿と『未完の総括』という、こういう冊子への寄稿と、小杉亮子さんの『東大闘争の語り』というお仕事があるんですけど、そのお仕事に触発されて、オーラルヒストリーを残そうじゃないかということです。
最初の我々の対象者として、Kさんを選ばせていただいたということなんです。
みんな見てると思うんですけど、小杉亮子さんの『東大闘争の語り』というのは、こういう順番になっていて、これがパっと、東大闘争だけなので、東大闘争のプロセス、に至る前があって、東大闘争はどういう社会運動、あるいは大学闘争のバックグラウンドの下で生まれてきたか。その前に、個人の形成過程、そういう活動家としての個人の形成過程の、大学以前を尋ねておられるんです。
それから、大学に入って、大学はどんな運動、バックグラウンドを持っていたか、土壌を持っていたかというのを小杉さんは聞いておられて、大学闘争、大学闘争の成長過程というか、大学闘争のスタート、展開過程、どんどん盛り上がっていく過程、それから、東大の場合だったら、衰退化という流れでオーラルヒストリーを作っておられるんです。我々もそれは基本的にその骨格でいいかなと思っていて、それを踏まえつつ、細かく細かく書いていたのがこっちということになります。
〇問(荒岡) それでは始めましょう、いいでしょうか。
〇問(山中) じゃ、Kさん、47年生まれ。
〇Kさん そうです。
〇問(石橋) 早生まれだったら上かな。
〇Kさん 早生まれだから、同学年としては、46年の人とほとんど同じです。
〇問(山中) 二宮って、東海道線の小田原のちょっと前、手前のところですね。
〇Kさん そうですね、平塚と小田原の中間くらいです。
〇問(田中) 藤沢とか。
〇問(山中) 小田原に近い。
〇Kさん 藤沢よりもっと向こう。もっと向こうというか、もっと神奈川県の西です。
〇問(石橋) 伊勢原市とか。
〇Kさん 伊勢原はもっと北。海沿いです、二宮というのは。
〇問(田中) 大磯とかの。
〇Kさん 大磯に今住んでて。大磯の小田原寄りが二宮です。
〇問(田中) 大磯より一駅小田原寄り。
〇Kさん そうです。だから、あちこち学校とかお仕事とかいっぱい行ったんですけど、住んでるところは二宮と大磯しかないんです。
〇問(田中) なるほど。
〇Kさん 私からなんですけど、一応なんですけど、皆さん読んでるということで、これに大まかなことは書いたんです。10・8の記念誌に。今、「K」なんですけど、書いているのは「K」で書いてます。Kというのは旧姓でして、これK・Tが私なんです。
何でKにしたかというと、大学時代に私を知っている人はKしか知らないだろうと思って。大学のときに私を知ってた人がこれを読んでて、私が、まあ生き延びてこれを書いたということが分かってくれたらいいなと思って、Kで書きました。
〇問(荒岡) それは持ってるのかな。頂いていいんですか。どちらで書かれてるんですか。
〇Kさん いっぱいあるからよかったら。
〇問(田中) 10・8(山ア博昭プロジェクト)の本ですね。
〇Kさん そうです。
〇問(田中) 羽田闘争があったときの。
〇Kさん 差し上げてもいいし、一応ここのところに自分の生い立ちとか何か、生い立ちというわけではないですけど、どうして運動に関わったかみたいなことを多少は書いたんですけど、詳しくは書いてないですけど、こんな感じです。
〇問(荒岡) ありがとうございます。じゃ頂いて。何部。
〇Kさん 一応いっぱいコピーしてきたので、欲しい方がいらしたらどうぞ。
〇問(荒岡) 頂きます。
〇問(田中) 私は多分自宅で持ってると思う。
〇問(石橋) あるのであれば、お話聞きながらちょっと。
〇Kさん じゃどうぞ。
〇問(山中) それで、60年安保のときは中学生なんですね。中学1年生、2年生?
〇Kさん そうです。その日に初めてうちにテレビが来たんですよ、白黒テレビが。うち、そんなに裕福じゃなかったから、中学2年で初めて白黒テレビが来たんです。
それで、そのときね、家族が寝静まった後、一人でテレビを見てたんですね。そうしたら、たまたまテレビが来た日に、女子学生が亡くなったというニュースをやって、一晩中見てました。それで、何かそのときすごい不思議なんですけど、私も大学行って運動して捕まるかもしれないという、何か思ったんです。そうしたら本当にそうなっちゃいましたけど。
〇問(荒岡) 予知したわけですね。
〇Kさん 予知です。ただ、そのときがそう思っただけで、それからずっと関係ないっていったらおかしいけど、そこにも書いてあるんですけど、何しろ高校までは全くいわゆる社会科学の本を読んだこともないし、そういうことと関係ありませんでした。
だから、私のときは大学に入ったときに、よその高校から来た人が、高校で社研とかがあって、いろんな社会科学の本を読んでた人が大学に入って、大学に来た人もいるんですけど、私の高校は全く何もなくて、私自身がもう学校の知識以外は全く知りませんでした。
〇問(山中) 平塚江南高校って聞いたことはあるけど、高校時代は何か部活動とかやってたんですか。
〇Kさん 高校時代は演劇部やって、バレーボール部やって、新聞委員会で3つやって。
〇問(荒岡) 新聞もやってたんですね。
〇Kさん 新聞委員会もやってて。
〇問(荒岡) 新聞ってバックグラウンドがあるんでしょうね。
〇Kさん ただ、重点的にやってたのは演劇部とバレーボールです。新聞委員会は友達がやってて、一緒にやろうよみたいな感じで、一応入ってたという感じなんですけど。
〇問(山中) じゃ、高校時代はあんまり政治的、政治的というか。
〇Kさん 何もない。全くないです。
〇問(荒岡) 高校までの生活環境というか、高校までの地域の様子とか、お育ちになった地域の様子とか、それから家庭の様子とか。
〇Kさん それもないです。
〇問(荒岡) それから教育環境とかは特段。
〇Kさん あります。というか記念誌に書いたんですけど、家が何しろ財産は何もないんですけど、昔からのお家で、お墓とか代々続いていた家だったんです。だから、女姉妹三人の長女だから、物心ついたときから婿を取れ婿を取れということで、母も4人姉妹の長女で、父が婿なんです。だから何しろ、何で私が結婚しなきゃいけないのか、何で婿取らなきゃいけないのかというのが、もうすごく嫌でたまらなかったんです。
それでなおかつ、そこに書いたんですけど、3歳直前に家が全焼して全部灰になってしまって、戦後でみんな貧しかったんですけど、昔は火災保険も何もなくて、もう本当ね、よくあれで生活したかというくらい、よそからお金を借りて、バラックというんですか、掘っ建て小屋を建てて、今から考えるとそこに9人いたんです。
〇問(荒岡) ご家族で。
〇Kさん そうです。祖父、祖母、父、母で、私の妹2人でしょう。それから母が4人姉妹の長女で婿を取ってたから、母の妹っていうのが2人いて、9人いて。それで、だから、かなり貧しくて、何しろ小学校のときにピアノが習いたくて、「ピアノ習わせてくれ」って言って泣いて頼んだんですけど、「人からお金を借りてる以上それはできない」とか言われて結構、極貧でもなかったけど、それなりに家は裕福ではなかったです。
あと、何しろ、祖父母がいて、婿を取れということでもう毎日そればっかり言われてて。
〇問(山中) 大学は東大受けようと思いながら、結局、受けなかったんだよね。
〇Kさん そう。受けようと思ったんですけど。余談ですけど、私は、母が4人姉妹で自分が3人姉妹で女の中に育ったから、女の中というのが嫌いでたまらなかったんです。
それで、高校のとき、女子がほとんどいないという理由で数Vと物理のコースに入ったら、物理が全然できなくて、東大行きたかったんですけど、ちょっと物理の点が悪くて。東大は文系も理科2科目、東京教育大は理科1科目でよいし、日本史が好きだったので、教育大を受けたんです、学校に勧められて。それでその頃の、今の筑波大学ですけど、ご存じか知りませんけど、教育大は結構レベルも高くて、日本史やるんだったら、東大の日本史と教育大の日本史とあんまりレベルが変わらないとか高校に言われて、教育大を受けたんですけど見事に落ちました。家が貧しかったので国立しか受けられないし、横浜国立大学に願書出しておいて受かって、まあ東大は来年行けばいいかという感じで、せっかく受かったからということで、横国に入ったんです。
(1)横浜国立大学入学 演劇サークルに入る
〇問(山中) 学部はどこなんですか。
〇Kさん 学部は、学芸学部で日本史です。
〇問(山中) 日本史。
〇Kさん 日本史。
それでその前に、高校のとき、これにも書いたんですけど、東大行くか演劇やるか、どっちかにしたいなという希望があって、東大落ちたら劇団入るつもりでいました。劇団は俳優座を目指したんですけど、その年、桐朋学園に移動するということで、俳優座は募集してなかった。それで、もう芝居をやるという目的のためだけに横国に入りました。
それで、横浜国大の演劇サークルで劇研に入ったら、突然別世界ですごかったです。
〇問(山中) すごかったってどういう感じなんですか。
〇Kさん すごかったというのは、みんなが今まで聞いたことのないような話をワーワーやってて、何が何だか分からなくて。というのは、劇研のサークル部員の多くが活動家を兼ねていました。
〇問(荒岡) 活動家。党派は何だったんですか。
〇Kさん 党派は中核派です。
〇問(山中) 65年というと日韓闘争のときですね。
〇Kさん 日韓のときです。サークルは演劇だったので、みんな演劇をやってたんですけど、芝居はほとんどしなくて。芝居もやったことはやったんですけど、戯曲分析でああでもないこうでもないとか、マルクス主義か実存主義かとか、サルトル、マルクスのお話とか、それで毎日部室の中がワーワーやってたんです。
もうびっくりって感じだったんですけど、65年、劇研のみんなが日韓のデモに行くので、65年、日韓闘争のデモに行きました。
〇問(山中) 行った。それが最初のデモ。
〇Kさん それが最初です。見に行きました。
〇問(山中) 見に行った。デモには入らなかった。デモの隊列には入っていない?
〇Kさん 多分最初は。後のほうで入ったかもしれないけど、見に行って入ったって感じです。
〇問(山中) 場所はどこでやった? デモは。覚えてない?
〇Kさん 日比谷…じゃなかったら何でしたっけ。
〇問(田中) 清水谷。
〇Kさん 清水谷、赤坂、あの辺だと思います。
〇問(田中) 清水谷かどっちかですよね。
〇Kさん ずるずるって変なとこまで連れていかれて。それで初めてそのときね、機動隊を見たんですよ、機動隊なるもの。生まれて初めて機動隊を見てびっくりしました。あー、これが国家権力って思って。それまで何か国家権力というものの意識があんまりなかったんです、高校まではね。例えば、絵とか描いたりすると文部大臣賞とかもらって、そういうものが一番いいものだって思ったんですね、自分の中で。でもそうじゃなくて、すごい、何ていうんでしょうね、もう機動隊を見たときのショックというか、恐ろしさはすごかったです。
それで、それからいろんな本とかを読んで、ああこれかって分かりました。レーニンの『国家と革命』とか読んで、権力ってこうなんだっていうのが分かって。それでだんだん自分の中でも国家権力というものがどういう存在なのかというのが、すごくよく分かりすぎるほど分かってしまったというか。そんな感じです。
〇問(荒岡) ちょっと細かいことですけど、一浪で入られたんですか、横国は。
〇Kさん 横国は65年の4月です。
〇問(荒岡) 一浪して? 現役で?
〇Kさん そのまんま現役で。だから、東大は受けなくて教育大落っこって、それでそのまま。一期校と二期校で、一応昔は。
〇問(荒岡) いや、「東大は翌年再受験することにして」ってここに書かれていたので。
〇Kさん 来年受けようと思ったけど、とりあえず横国が受かったから入ったということです。
〇問(荒岡) なるほど、そういう意味ですか。仮面浪人しようと思ったということですね。
〇Kさん 横国ははっきり言って、いわゆる二期校だったから、成績の良い人はほとんど一期に行ったから、適当にやっても入れるとこというか。
〇問(荒岡) いやいや、そんなことないですよ、我々の時代。
〇Kさん いや、本当にそうなんです。経済とか工学部はレベルが高かったが学芸は低かった。
〇問(荒岡) 東大すれすれで落っこった人たちもいるし、大変優秀な人たちがたくさんいたと、僕は思っていました。
〇Kさん でも、樺さんでしたっけ?誰かが一浪したときに、やっぱり横国の日本史を受験したって書いてありました。だから、昔のいわゆる二期校で、経済と工学部はほとんど東大落ちた人です。横国の経済と工学部は、二浪三浪して東大に受からないから仕方なく横国という人で、ほとんど全部そうでした。
〇問(石橋) そういう話は聞いたこともある。私の受験のとき。
〇問(荒岡) 私はそうですから、よく知ってます。
〇問(田中) そうなんですか。
〇問(荒岡) そんな経験はしてないけど、その当時の横国はよく知ってます。
〇Kさん 何か雑談ですみません。
〇問(荒岡) いやいや。今までの話で、Kさんが大学に入られるまで、大学に入っていかれるまでのプロセス。家庭、家との関係、家の中の様子というのは非常によく分かったんですけど、学校での友人関係とか、そういうものの影響はなかったですか。
〇Kさん 高校までは全然関係ない。全く普通の、といったらおかしいんですけど、政治的なことは誰も関わってなかったし、私自身もそれに関わってる友人と関わったこともなくて。ですから、大学入って突然ですね。演劇サークルに入って突然ですよね。
〇問(荒岡) 社会的な関心というのはお持ちじゃなかったですか、大学に入るまでに。さっき60年安保、6・15をテレビでご覧になってたという話ありましたけど。
〇問(石橋) お父さん、戦争とかはどうだったんですか。お父さんから戦争の話を聞くとかそういうのは。
〇Kさん それはないです。
私が学生運動に係わったらいっぱい殴られましたけど。実際にやったという、何か分かったときには、うちで何度か殴られました。60年安保の時、学生がやるのは悪いとは思ってなかったと思うんですけど、実際に自分の娘がやることに関してはもう。
〇問(荒岡) よくあることですよね。
(2)佐世保闘争に参加する途中での出来事
〇Kさん 年中探しに来て連れ戻そうとしました。
飛びますけど、佐世保に行くとき、飯田橋で捕まったんです。
〇問(山中) 佐世保に行こうとした。
〇Kさん エンタープライズの。法政大学から飯田橋の駅に歩いていただけで捕まったんです。
〇問(山中) 飯田橋事件という。
〇Kさん 飯田橋事件。予防検束ですよね。
〇問(山中) 日野さんいたでしょう、日野豊さん。手伝いに来てた日野さんっていたでしょう。彼も飯田橋で捕まってる。
〇Kさん 結構みんな捕まってます。弁護士の小長井さんが若いときにみんなで飯田橋事件で捕まった人を手分けして救援に行ったって。私の担当は小長井さんじゃなかったんですけど、小長井さんすごくよく分かってて、150人ぐらい捕まって女子学生は15人とか言ってました。
〇問(荒岡) 1割。
〇Kさん それで前の日、それこそ羽田闘争と同じ法政に泊まって、朝法政から飯田橋に行く間、歩いてただけで捕まっちゃったんです。それで、三泊四日で入れられたんですけど、出てまた、次の日に同じ列車に乗って、うちに帰らないで佐世保に行ったんです。
〇問(山中) 帰らないで佐世保に行った。
〇Kさん そうしたら、その電車に父が乗り込んで、「降りろ降りろ」「帰れ帰れ」って言って、私は「嫌だ」って言って、静岡辺りまで。静岡で諦めて父は降りたと思います。
〇問(田中) お父さんはどこから乗ってきたんですか。
〇Kさん どこから乗ってきたかは分かりません。列車に乗ってた学生が父を連れてきたんです。同じ党派の人。それで、列車の中で父と話して、「行くな降りろ」で「絶対嫌だ」と言って、それを繰り返して。
〇問(荒岡) 同じ党派の人ですか。中核派の活動家が連れてきたんですか、お父さんを。
〇Kさん そうです。
〇問(田中) 何で中核の人が連れてくるんだろう。
〇Kさん 娘が多分この列車に乗ってるはずだからっていうことで、誰かを捕まえたんだと思うんです、その辺にいた人。そうしたら、その人がお父さんが乗ってますよということで私のところに連れてきて。その人、可哀想に内ゲバで亡くなりましたけど、連れてきた人はね。
あと、第二次羽田かと思いますが、羽田の群衆の中に父がいて私に「帰れ」って言いました。「嫌だ」って言って三里塚行きましたけど。まあそんなことで。
(3)活動を始めた頃のこと
〇問(山中) Kさん、その演劇のサークルが中核派で、日韓闘争のデモに行って。中核派と一緒にやるのはもうその頃から、65年からずっと中核派と一緒にやっていた。
〇Kさん ていうか、何派があるとかは知らなかったんです。民青は分かってて、民青は嫌だと思ったんですけど。
〇問(山中) 革マルがいましたよね。
〇Kさん 革マルもいました。
それでだんだんデモとか行くようになって、1年生の日韓の秋ですよね。日韓闘争までは本当に何も関わらなくて、それで日韓闘争のデモに行くようになってからもう何か、私もデモに行かなくちゃってことで、デモに行って。
それで2年生の夏頃からですか、いわゆる活動し出したのは。
演劇サークルに先輩でとても信頼できる人がいて、その人が一緒にやろうと言ったことで、もう自分はこれに賭けようと思って、それでやった感じですね。結局その人が中核派だったから、自分も中核派に入ったって感じ。
〇問(田中) 男性の先輩ですか。
〇Kさん そうです。2年先輩で、いうなれば学生運動もリーダーで、演劇のサークルもリーダーでっていう感じです。
〇問(荒岡) なるほど。思ったような劇研じゃなかったので、それなのになぜおやめにならなかったかなと思った。そういう背景があったんですね。
〇Kさん だから、ほかの方はどうなのか知らないし、男の人は女の人に影響されることもないかもしれないですけど、私はやっぱりその人の存在が大きい。もちろん理論的に、国家権力の存在っていうものを自分が目の当たりにして自覚して、いろんな本をそれから読んだんです。それで学習会とかもあって、いろんな党派に何か言われるたびにきちっと答えられないといけないというのもあって、それなりにマルクスとかエンゲルスとか、みんなが読むようなものは読みました。それで、結構、納得したって感じなんです。
〇問(荒岡) その前なんですけど、そういう先ほど伺ったような家庭でいらっしゃって、女性でいらっしゃるのに、よく大学進学認めてもらえましたね。その当時まだまだ僕たちの世代では、大学には進学させてくれなかった。家庭で貧しかったら余計。
〇Kさん 自分で言うのはすごい僭越なんですけど、成績が結構よかったんですよね。それで、すごい傲慢ですけど、こんなに成績がいいのに私が行かなくて誰が行くの、もう行くのが自分で当たり前みたいに思ってて。家でも別に、私が勉強するということに関しては、いくらしてもよく何の文句もない。ただ、お金がないから国立しか行けないって感じで。
〇問(荒岡) 私の父なんかは、実践的には全然男女平等の振る舞いはしませんでしたけど、思想的には男女平等をいつも唱えていて。だから、僕より6年上の姉貴を東京の金のかかる私立に、広島出身なんだけど、行かせてました。非常に稀な例でした、その当時は。
〇問(田中) 妹さんがいらっしゃると思うんですけど、大学行かれてたんですか。
〇Kさん 行ってないです。
〇問(荒岡) 2人とも。
〇Kさん 行ってないです。
〇問(荒岡) それは成績が理由ですか。
〇Kさん そうです。
〇問(田中) 運動家に流れたら困るみたいなのがあったのかなと邪推したんですけど。
(4)平塚江南高校の頃
〇Kさん それはないです。
前後しますけど、家があんまり裕福じゃなく、悲しいことがあったので、何しろ成績だけは絶対人に負けないっていうのがあって、勉強だけは頑張りました。平塚江南はその当時進学校で、湘南が県立トップでしたが学区が異なり受験できず、平塚江南にしました。平塚江南が湘南に次いでいて東大合格者が30人以上いたんです、一学年で合格する人が。
〇問(荒岡) それはすごかったですね。
〇Kさん でも、さっきのお話ですけど、進学校だったんで、私の下の年次からは12クラスあるんですけど、私のときは9クラスだったんです。昔の学校で、今そんなことしたら怒られると思いますが、男子が5クラスで女子が4クラスだったんです。でも、女子の4クラスの半数は就職コースでした。当時は本当に就職クラスは成績じゃなくて、お家の経済状態と親の考え方ですね。だから、よくフェミニズムとかジェンダーのお話だけど、男の子は成績にかかわらず進学コースで、女の子は同じお家でもなかなか大学まで、まして大学行くんだったら短大っていうのがその頃の親の考え方でした。
〇問(荒岡) 進学クラスと就職クラスに分かれて、理不尽だと思われませんでした?
〇Kさん 今思えばとても理不尽だと思いますが、私は自分のことで精一杯でした。
〇問(石橋) そこのクラスは男女別だったの。
〇問(伊東) 私のところとかも、50人くらいのクラスの中で女性は15人くらい。より取り見取り。
〇問(荒岡) 細かいことですけど、6・15をテレビでご覧になっていて、亡くなった樺さんへ共感なんかをお持ちになったんですか。感じられました? それは何も? 大変だなというぐらいですか。
〇Kさん 何かすごい、何ていうんでしょうね、自分のことのように思ったんです。もしかしたら私もこうなるかもしれないっていうのが、すごいそのとき感じて。だから、もしかしたら自分の中にそういうことが無意識に、学生運動をすると、権力に反抗したらこういうことになるかもしれないという何かがあったんじゃないかなって気がしますね。
(5)活動は1968年の春まで
〇問(荒岡) 田中さんが結構興味持ってることなんですけど、僕なんかは大学入って、サークルは文芸部なんですけど、入ったときに先輩が大学院生、大学院生が非常に多い大学だったので、院生に60年安保の経験者がいっぱいいたんです。文芸部で僕はその大学院生、あるいは助手だった先輩の影響なんか結構受けてるんですけど、そういう影響はお受けになりませんでした?
〇Kさん 直接、60年安保を闘った人っていうのは、周りにはいませんでしたよね。
〇問(荒岡) 院生とか助手とかというのは残っていないから。
〇問(伊東) 横国に入って、学園内での闘争というか活動というか、そういうテーマはあったんですか。大学の中での活動テーマ、それはあったんですか。
〇Kさん ありましたね。ていうか、もう入った日に立て看があってビラが撒いてあって、「何だこれは」と思って、「学生運動というのはこれか」って思ったんです。自治会費をどこかの党派が流用してどうのこうのっていうのがあって、それでその後、学芸で学部名称変更、白紙撤回闘争とかっていうのをやってました。
〇問(伊東) どんな。
〇Kさん 学芸学部だったんですけど、学芸学部を廃止して教育学部にするっていう通達が出たんです。そのときに、学芸学部っていうのは教員免許がなくても卒業できたんです。でも、教育学部にするということで、教師の養成の大学にするというか、なるということで、それの反対闘争みたいのがあったんです。
〇問(山中) あと、こういう本なんだけど、『全国学園闘争の記録』。
〇Kさん 横国って書いてありますね。
〇問(山中) 横国のがあって、69年に作られたものだから、横国の全共闘からの視点なんだけど、これ見ると67年ぐらいに何か統合反対闘争みたいのがあったって書いてあるんで。
だからこういうのご存じかなって思って。
〇問(荒岡) どこを統合する?
〇問(山中) だから読んでもよく分からないの。
〇問(伊東) ともかく学芸学部を教育学部にするという。
〇問(山中) よく分からない。この辺に書いてある。
〇Kさん 前身が工学部と経済学部と教育、3つしか学部ないんですよ。総合大学じゃなくて横国の場合は単科大学みたいなもので、それで工学部は専門学校みたいのが工学部になって、経済学部もそういうのがなって、それで学芸は師範学校がそうなって、神奈川県の3つの専門学校が集まって横国になって、それをどこかに移すっていうことだったんじゃないか。それはあんまりよく覚えてないです。
〇問(山中) じゃ、それにはあんまり関わってなかったんだ。
〇Kさん うん、関わってなかった。
〇問(山中) 67年から68年ぐらいなんです。
〇Kさん だから、68年の王子をやって、その後消えました。
だから私、やったときは結構前のほうで過激にやりましたけど、68年の春までやって、あと止めたというか消えました。
(6)67年10・8羽田闘争へ
〇問(山中) それで、67年の10・8の話ね。10・8のときは法政大学。横国から何人ぐらい行ったんですか。
〇Kさん バスで三、四十人じゃないか、分かりませんね。バス一台が満員だったのは確かです。ただ、横国の全部で行ったんですね。そうしたら、10・8のときから党派に分かれてやることになって、バスをどこで降りるかということで降りるとき一悶着あって、結局中核派が法政に行ったんですけど、よその党派はどこかで降りたと思います。同じ全部の党派、全部横国から行ったんですよ。
〇問(荒岡) 三派でみんな。
〇Kさん 三派。でも三派といっても、横国っていわゆる都学連の三派と違うんですよ。皆さん同じくらいですか。
〇問(荒岡) そうですね。
〇Kさん 都学連の三派は、中核と解放とブントと大体3つが主流だったんですよね。
〇問(山中) そうそう。
〇Kさん だけど、横国の三派というか、中核のほかはML派と第四インターが主流でした。ML派はブントですか。
〇問(山中) ブントの分派みたいな。
〇Kさん ブントのML派ですね。第四インターっていうのは、社青同とは違いますよね。
〇問(山中) 革共同だからね、第四インターは。
〇Kさん だから、第四インターとMLと中核が横国の主な党派だったんです。
〇問(山中) それがバスに一緒に乗って。
〇Kさん 一緒にバスに乗ったんです。それで、羽田闘争行こうっていったら、都内で解放派がやられて、あれいろいろあったんですよね。
〇問(荒岡) 党派闘争と内ゲバね。
〇Kさん 内ゲバがあって。それでもう、党派ごとに羽田を闘うっていうことで。それでバスが法政に行こうとしたら、行き先が違うっていって、バスの中ではごたごたして、それで中核の人だけ法政に行って、その他の人は法政に着く前に降りたと思います。
〇問(田中) 何かすごい素人質問で恐縮なんですけど、よく運動でこうやってバスで行ったとか話あるんですけど、バスってチャーターするんですか。
〇Kさん うん、借りるの。
〇問(田中) 大学ごとで。
〇Kさん バス会社に大学ごとで。
〇問(田中) 自治会費からそういうのを出してる。
〇Kさん ほら、横浜はちょっと遠いから。でも何でバス呼んで、バスで行ったのかも考えてみたら知らないですよね。でもある意味、あそこは田舎だから文部省まで歩いてデモ行ったことあるんですよ。
〇問(田中) 東京のですか。
〇Kさん うん。
〇問(田中) 横国から。
〇Kさん 箱根駅伝じゃないけど、三、四時間歩いてかかったんじゃないかしら。
〇問(田中) 何人ぐらいの隊列で。
〇Kさん 二、三百人で。
〇問(田中) それ何年のことですか。
〇Kさん 66、67年だと思う。
〇問(荒岡) 日韓と羽田の間だ。
〇問(伊東) 学芸学部を教育学部にするという問題の話ですか。
〇Kさん うん。結局とおってしまいましたけど。だから学芸学部は廃止になって、教育学部になりましたけど。
〇問(荒岡) そんなのあったんだ。立派な大学闘争。
〇Kさん そんなのあったんです。あれは結構有名で、それで一言も誰もしゃべらず、徹夜で団交したんですよ。それで、みんな家に帰らず、大教室で何百人か集まったまま朝まで黙ったまま、教授がずらっと並んで、学生もずらっといて。門限のあるようなお嬢様も一人も帰りませんでした。
〇問(荒岡) 学生の側は誰が仕切ったんですか。
〇Kさん ML派の三戸部さんっていう人です。ご存じですか。
〇問(荒岡) いや、知らない。
〇問(山中) 名前聞いたことある。
〇Kさん 横国の学芸の自治会委員長。ML派の三戸部さんっていう人でしたね。
〇問(山中) 10・8のときに、大森海岸からブントと一緒に高速道路入った人じゃないの、確か。
〇Kさん そうなんですか。
〇問(山中) 進路を間違えた。
〇問(田中) 進路を間違って観光バスに、こっちは羽田空港ですかって聞いたっていう話です。
〇問(山中) 張本人だと言われてるけど。まあいいや。
それで法政に泊まって、朝電車で大鳥居まで。
〇Kさん そうです。
〇問(山中) 大鳥居から羽田まで途中、萩中公園寄って、そこに。
〇Kさん 萩中公園で集会やって、萩中公園からバーッとみんなで走ってたんですよね。今思うとここよく走ったなって感じです。
それ面白いですね、ちょっといいですか、後で見せてもらう。(写真集を見る)
〇問(山中) この人知ってる?
〇Kさん これ誰でしょう。でもこれもしかしたら、ここのところ封鎖されてますよね。
〇問(荒岡) バリケードの中ですね。69年だからね。
〇Kさん バリケードの中ですよね。
〇問(荒岡) すごいの持ってるね。山中さんはさすが。
〇問(山中) それで、萩中公園から大鳥居まで走っていった。あれ3kmぐらい、もっとあるか。
〇問(石橋) 私も歩いたけどかなりある。
〇Kさん 今、墓参に行ってて、バスに乗りますが、よく昔あれやったなって思う。本当に泊まり込んで、朝ご飯も食べないで集会行って、一日中物食べないでよくあれだけみんなで頑張ったなって。
〇問(山中) プラカードを持ってた。
〇問(荒岡) 最初はね。
〇Kさん プラカードはほとんど持ってなかったです。少しは持ってたかもしれないけど、ただ何千人もいたから、後ろのほうはみんなただ駆け足で。
〇問(荒岡) 途中で渡されたんじゃないの。
〇Kさん 前のほうが多少持ってたんじゃないですかね。
〇問(荒岡) みんなプラカード、板に打ち付けて持ってったね。
〇問(伊東) それはいつ頃の。
〇問(田中) 10・8。でも、10・8のときでヘルメット被ってるのって本当に最前だけって話。
〇Kさん ヘルメットはほとんど誰も被ってないです。前の数人だけじゃないかと思います。
〇問(山中) Kさんはずっとずっと前のほうに。
〇Kさん いなかった。
〇問(山中) 前のほうにいなかった。
〇問(荒岡) それはそうでしょう。
〇問(田中) やっぱり女子学生は隊列の後ろとされたんですか。
〇Kさん いや、すごい人数だったから、1,000人とか2,000人とかいたんじゃないですか、数えてないから分からないですけど。記念誌に書いたんですけど、清水谷から出るような小さいデモは二、三百人だからキューッとなるともう、五、六列目ぐらいになると、もうギューッって押されて、前、機動隊でぽこぽこやられたんですけど、羽田のときは何か2,000とか3,000とか書いてありますよね。それで、多分よく分からないんですけど、大体何とか大学何とか大学とかって順番を指示されるんですけど、多分もう女子は後ろというのは暗黙だったんじゃないかなって感じで、前のほうに女の人は誰もいませんでした。
〇問(荒岡) 写ってないものね。1枚しかないから、写ってなくてもおかしくはないんだけど。
〇問(山中) それで、だんだん前のほうに行ったんですか。行ったということですよね。
〇Kさん そうですね。だんだんとか、もう橋まではみんな行きましたから。そうしたら、どっかから石集めてこいとか、棒切れ集めてこいとか何かあって、みんなで一回下がって、石とか棒とかをみんなで探して、前のほうに送った記憶があります。
(7)弁天橋の上で
〇問(山中) 橋の上まで行ったんですよね。
〇Kさん 最初は上までは行ってないです。山ア君が亡くなった後ですね。亡くなったときは多分、橋の上には行ってないと思います。というか橋の上に行くほど前のほうにはいなかったから。
〇問(山中) それから橋のほうに。
〇Kさん それで、時間的な経過というのがあんまりはっきり覚えてないんですけど。何しろ山ア君亡くなったという知らせがあって、そうしたらそのうち機動隊が引いて、橋の上が装甲車だけになったんですよ、ある一時期。そうしたらみんなが装甲車越えてあっち行こうということで、みんな装甲車の隙間を通って、羽田(空港)のほうにどんどんどんどん行ったんですよ。
〇問(山中) そこに前のほうに。
〇Kさん そうです、装甲車よりも前に、羽田(空港)のほうに行ったんです。それでもう、そこに書いたんですけど、山ア君亡くなっちゃったし、山ア君のためにももう前に行かなくちゃって思って、どんどんどんどん行ったんです。
そうしたら、結構みんな装甲車よりも前に何百人か相当行ったんです。そうしたら突然「ダーン!!」って銃声がしたんです。それまで催涙弾を撃ったというのが、私の学生運動の中では経験がなかったので、本当に銃弾を撃ったと思ったんですよ。わーっ、殺されると思った。催涙弾じゃないと思ったから。二発ぐらい撃ったのかな、もうそのとき、やっぱり命懸けとはいえ、銃で撃たれるっていう恐怖は何か、やってるときはもう死んでもいいからやろうっていう気持ちはあったんですけど、やっぱり銃で撃たれる恐怖というのはすごくて。みんなが後ろに逃げようとしたんですよ。
それで、前からは逃げる人が来る。私も一緒に逃げようとしたんですけど、記念誌にも書いたんですけど、装甲車が斜めに停まってて、欄干と装甲車の間が人一人ぐらい、50cmぐらいしかないようなところがあったんです。そこのところにみんなギューッと押し寄せたから。
それで、欄干がすごく低かったので、お腹ぐらいしかなくて。それで、前からギューギュー来る、体が半分欄干より出て、もうそのとき泳げなかったから、あーっ、川に落ちて死ぬって思ったんです。もうそのとき、本当に死ぬと思いました。そうしたら、何かもがいてるうちに、横からうまく押されたんですよね。私が川に落ちようとする体形のまま横に押されたから、装甲車のこっち側(川)に落ちずに、押されたというか押してもらったというか、そんな感じで助かったって感じです。(写真集の)その辺どっかいるかもしれない。
〇問(山中) (写真集を見ながら)あんまり女性いないですよね、これ見るとね。
〇Kさん あんまり女性いないでしょう。
〇問(伊東) 大体いないよね。
〇Kさん どこかにいるかもしれない。
〇問(山中) 確かにこれ低いから、押されたら落っこちゃう。これだけしかないもの。
〇Kさん 隣から二、三人落っこってたんじゃないかしら。
〇問(荒岡) 落っこってたよ。落ちてる写真もある。
〇問(石橋) 落ちてる写真ありますよね。
〇Kさん だって、本当にこのくらいでこんな感じだったから。これはまだそんな押されてないんじゃないですか。
〇問(荒岡) まだね。まだ余裕がある。
〇Kさん 何かのときに、砂川闘争の動画フィルムを見たときに、捕まるときかやられるとき、お母さんって言ってた。私も本当に、川に落っこちそうになった時に、自分の好きなことやって家族には申し訳ないなって一瞬思いました、そのとき。
〇問(田中) 死ぬかもしれないと思ったんですか。
〇Kさん 死ぬかと思いました。で、後ろに行けて、川に落ちずに済んで助かったって感じ。
〇問(山中) その日は法政大学に戻ったんですか。
〇Kさん 何かとぼとぼ歩いて、蒲田の駅まで歩いてきました。それで法政大学に戻りました。
(8)テレビのワイドショーに出演
〇Kさん 法政大学に戻って法政に泊まったんです。そうしたら、次の日の朝、テレビのワイドショーがあるから誰か出てちょうだいとか言われて、何人か出さされたんです。
〇問(山中) それでテレビに出た。
〇Kさん それで、小泉博のモーニングショーって覚えてる。今のTBSですよね。2列ぐらいに並んで後ろに座ってたんです。
〇問(山中) 何人ぐらい出たんですか。
〇Kさん 10人ぐらいだと思う。
〇問(山中) 10人ぐらい。男女合わせて。
〇Kさん 男女合わせて。
〇問(山中) 女性は何人ぐらい。
〇Kさん 女性は3、4人いたんじゃないですか。それで、前に5人ぐらい後ろに5人ぐらい並んで。それで前の2、3人にインタビューして、後ろに座ってただけだったんですよ。記念誌に書いたんですけど、そうしたら、観客のおばさんたちが来て、「あなたみたいなおとなしい子が何でやるの」とか言われちゃってとか、「知り合いの誰ちゃんに似てる」とか言われちゃって。だから、よっぽど普通の女の子といったらおかしいんですけど、そういう風に思われて。そういうのって、いかにも恐ろしい強い人がやると思ってたんじゃないですか。みんなにどうしてやったのとかやるのとか質問が来たのは覚えてます。
(9)佐世保闘争への参加
〇問(荒岡) その後、68年の4月に逃げたとおっしゃってましたけど。
〇問(田中) その前に佐世保が。
〇問(荒岡) 佐世保行ってるんですよね。
〇Kさん 佐世保行きました。エンタープライズです。
〇問(荒岡) お父さんに止められたときかな。
〇Kさん そうです。
〇問(山中) 佐世保はたどり着いた?
〇Kさん たどり着きました。
〇問(山中) じゃ、橋の上で。
〇Kさん 橋の上で。その捕まったときも出てから行ったときも、「西海・雲仙」っていう夜行列車があったんですよ。「西海・雲仙」って、東京駅を10時半に出て、翌日のお昼頃着くんですよ。だから24時間以上です。それで行きました。
それで15日に捕まって、19日の夜中に出されて、20日に行ったんじゃないですかね、確か。分からないんですけど。それで夜行で行って佐世保に行って、佐世保に行った日に2人が川渡って中入ったんですよね。
〇問(山中) 基地の中に。
〇Kさん そうですよね。
〇問(山中) 水谷さんか。
〇Kさん 赤松さんと水谷さんです。
それで、その後九州大学に泊まって、博多でカンパをして、それで東京に帰ったような気がします。
〇問(山中) カンパのお金でね。
〇問(荒岡) あの当時は結構カンパ集まったからね。
〇Kさん すごかったですよ。
〇問(田中) じゃ、交通費とかはカンパで行ってたんですか、佐世保までの旅費とか。
〇Kさん 旅費は、切符は買ってもらえたんじゃないかな、確か。自分では出してないと思う。だってお金ないもんね。
〇問(田中) そうなんです。結構すごく単純な疑問なんですけど、バスをチャーターしたとか佐世保に行って何だとかって、どういうふうに工面してたのかって、キセルしてた話も聞く。昨日も某解放派の……。
〇Kさん 自費ではないです、自費では。
〇問(石橋) 行きだけでもらって帰りはどうせ捕まってしまうから、帰りのあれは残ってないという、そういう話は聞いたことある。
〇問(田中) 特攻みたいな。
〇問(荒岡) 特攻隊じゃない。
〇問(山中) で、佐世保の後は三里塚?
〇Kさん 佐世保の後は三里塚にずっと行って、それでその後王子にずっと行って、激動の9か月とかってよく言われている、あれは毎日出てました。一回も休んでないです。一日も休んだことないです。
(10)闘争をやめた理由
〇問(荒岡) どこに住んでたんですか、その当時。
〇Kさん それが二宮なんです。
〇問(山中) 家から通ってたんですか。
〇Kさん 下宿もしないで、泊まり込み以外はちゃんと一応怒られながら家に帰ってます。地方から出てきた人とかはほとんど男の人と一緒に住んでたり、いろいろあったんですけど、私全然男の人には縁がなくて、ちゃんと家に一人で帰ってました、闘争以外は。
〇問(石橋) それはもう父親が怒って殴られたという。
〇Kさん そういうわけじゃないけど。
〇問(石橋) 夜遅く帰ると、父親が起きてて、もう帰ると玄関のとこにいて、何やってたのとか、いきなり殴られる。
〇Kさん ていうか、だから電話もなくて、親戚の家に電話して。でも一応、今日は用があって帰れないからっていうのは、ちゃんと親戚の家から伝えてもらってはいたんですけど。
ただ、親のそれには屈しなかったんですけど、一応党派の内部のことで許せないことがあったので、やめました。
〇問(荒岡) そこはすごく大事だね。大事なとこですね。
〇問(田中) どういうことですか、それ。
〇Kさん どういうことですかって、リンチはされなかったんですけど、夜自治会室に呼ばれて、一晩中組織の幹部から批判・恫喝されました。朝まで批判され続けましたが、納得しませんでした。もう危ない怖いと思って、これ以上ここにいたら何されるか分からないと思ったので、なるべく近づかないようにして、ある日からぱったり、何て言うのかな、姿を消しました。
〇問(荒岡) そこは具体的に言えない話ですか。
〇Kさん 大丈夫ですよ。要するに、皆さんどういうふうなお立場か知りませんし、別にいいんですけど、要は命令に従えと、当たり前ですけど、党派だったからしょうがないですよね。それで、一切の上からの命令には従わなきゃいけないということで、いろいろと文句を言ったら怒られたということですよね。
具体的に言っちゃうと、結局もう、ほかの学校はどうしてたか分からないんですけど、学校で人を捕まえて、今こういう状況だから運動に加わらないということは犯罪的だって言って、普通の人を捕まえてギャーギャー毎日やってたというか、やるんですよ。
〇問(山中) オルグね。
〇Kさん そうですよね。でも、人の内発的な主体性というのをもっと認めないといけないと言ったら、怒られたっていうのか。もう何しろどんなことでも上からの命令は一切従わなくちゃとか、鉄の規律とか言い出して、何か反対意見を言ったり自分の意見を言ったりすると、もう許してもらえなかったから。
〇問(荒岡) オルグの活動には、オルグっていうか、普通の人に説教する、そういう活動にKさんも参加させられたんですか。
〇Kさん 私はやりませんでした。やりませんでしたっていうか、だってそれはやりたい人がやればいいと思ったし、やりたい人がやってる姿を見て、自分もこれをやろうと思った人がやればいいと思ったし、ギャーギャー責めて責めまくって決意させるっていうやり方はよくないというふうに、昔も今も思ってるので。
あと、山中さんのブログで見たんですけど、結局党派の理論とか目標というのがありますよね。それがいくら良いものでも日常的な、人間的な倫理観みたいのが許せなかったらやっぱり嫌だなって思いますよね。山中さん、何か書いてあったでしょう。誰か中核派の人が何か書いていて、そこの自宅に誰かが来て、ひどいことをいっぱいしたとかって書いてあって。
〇問(山中) 青学のやつね、Yさんのやつね。
〇Kさん だから、すごく印象に残ってるのは、はっきり最初から最後まで覚えてないですけど、太宰治の『人間失格』の中で、あの頃は共産党しかないですか、共産党なら共産党の党員にみんながなるわけです。でも、党員になれば全部が同じじゃない。全ての人がその目的のために集まってるけど、やっぱりどうしても人間的に許せないというか、生理的に嫌いとかいろんな人がいるわけですよね。そういうのが、私はやっぱり許せないことは許せないなって感じだったので。
〇問(荒岡) 生理的に許せないことっていうのが、さっきのオルグですか。
当時のKさんのそういう状態になるまでの日韓から10・8、それから佐世保、それから成田の間、家にも帰っておられたというんですけど、家にいらっしゃった時間と、それから法政にいた時間とか大学にいた時間とか、そういうものの比率ってどんな感じだったんですか。
〇Kさん もう夢中だったって感じで。
〇問(荒岡) 毎日、(横国)大学ですか、法政ですか、どっちですか。
〇Kさん 大学ですか。
〇問(荒岡) いた時間です。どこが一番長いんですか。
〇Kさん 授業はほとんど出てないし、ただ演劇のサークルで部室には結構いました。あと、学校はやっぱりいろんな会議とかなんで法政とか東工大とか、早稲田とかよく行ってましたね。
〇問(荒岡) よく来てました。僕は東工大ですけど。
〇Kさん ただ、早稲田はすごい気の合う人がいっぱいいたので、結構、行ってました。
〇問(荒岡) 早稲田、平気でした?
〇Kさん まだ当時は大丈夫でした。
でも、あっという間のような気もするし、本当に何かはっきり覚えてるんだか覚えてないんだか分かんないような気もするし、何となく断片的にはぽつぽつって覚えてるんですけど、でも結構忘れてることもいっぱいあるんじゃないかって感じです。
〇問(山中) 卒業はしたんですか。
〇Kさん 一応っていうか、それは本当に信じられないんですけど、授業がもうほとんど一年間ぐらいなかったら、家まで教員から連絡が来て何でもいいからレポート出せば単位をくれるということで、書きまくりました。二十数科目、消えてたから図書館にこもって毎日レポート書いて送って、一応全部卒業に必要なのは取りました。意味がないと思ったんですけど、何しろ家の中がめちゃくちゃだったので、それだけやってあげないと親が気が狂いそうだったので(気が狂っていました)。
〇問(伊東) それで取れたんだったらよかったじゃない。
〇Kさん 一応卒業なんですけど、でも教師の試験は2年間続けて落ちましたので。
〇問(伊東) そうかそうか。それはごまかしきかないですね。
〇問(荒岡) 教師の試験。
〇Kさん 教員の採用試験。だって、親は卒業とか教師になるとかといったら万々歳じゃないですか。
〇問(荒岡) そりゃそうですね。
〇Kさん 何か雑談ですみません。
〇問(荒岡) いやいや。
(11)内ゲバで殺された人たちのこと
〇問(田中) 私、あと5分か10分で行かないといけないので、最後にちょっと質問したいなと思ったんですけど、途中の話で、お父さんが佐世保で、エンプラに行く途中に同じ仲間が連れてって、その人が内ゲバで亡くなったって話とかあったと思うんですけど、最後のほうの質問で内ゲバについてあったと思うんですが、実際に一緒にやっていた仲間で内ゲバで殺された人って何人ぐらいいたんですか。
〇Kさん 内ゲバで殺された人?
〇問(田中) はい。Kさんやめた後含めて。
〇Kさん 止めた後ですが、佐世保に行く時、列車の中で父を連れてきた埼玉大学の人は殺されました。
〇問(田中) ほかにも横国とかで一緒にやっていた仲間で、そういう内ゲバがあったりとか。
〇Kさん 一緒にやってた人はないですけど、ただ、その後京浜安保ですか。
〇問(田中) 京浜安保に結構、横国の革命左派の人が。
〇Kさん そうです。だから、あさま山荘にいた吉野君とかも、昔顔とか名前はよく知ってたし、あと……
〇問(田中) あの上赤塚交番襲撃事件の。
〇Kさん そうですね。それは柴野君ですよね。とかもよく知って、親しくないけど顔と名前はよく知ってたし、あとあれなんていうんでしょうかしら、みんなリンチで殺された。
〇問(田中) 印旛沼事件ですか。
〇Kさん 山で。
〇問(田中) 山岳ベース。
〇Kさん 榛名山。あの何人かも昔はよく知ってます。
〇問(荒岡) でも、横国は拠点だったから、ほかの大学からもいろいろ入ってきたんでしょう。ほかの大学の活動家も。
〇Kさん ほかの大学から来た人は知りません。結局、私はもうこれは駄目だと思ってやめて、消えたんですけど、結局残って頑張ってた人がああなっちゃったなって感じがしますよね。
〇問(田中) 最後、マスクちょっと一瞬だけ取ってもらって、話してる風の写真を一応撮っていいですか。
〇Kさん マスクを取るの。
〇問(田中) 取ったほうが。
〇Kさん そうですか。
〇問(田中) ちょっと話してる感じで。
〇問(石橋) ノンセクトっていなかったんですか。セクトの人ばっかりじゃなくて。
〇Kさん あんまりいなかったです。人数も少ないし。
〇問(伊東) どのぐらいの規模だったの。デモとかにはどれくらい出てたんですか。
〇Kさん デモに横国からですか。学内のいろんな市内のデモは二、三百とか、四、五百とか出てましたけど。アメリカ領事館とかよく行きましたけどね。
〇問(荒岡) アメリカ領事館。
〇Kさん 領事館ですよね。アメリカ領事館っていうのが横浜にあるんですよ。そこまでデモとか。
〇問(荒岡) デモで。そのデモは何が目的のデモですか。ベトナム戦争?
〇Kさん やっぱりベトナム戦争です。あと紀元節反対とか。
〇問(荒岡) じゃ、そのぐらいでよろしいですか。
〇Kさん またもしあれだったら、いつでも何でもお聞きください。
(1)「10・8山ア博昭プロジェクト」との出会い
〇問(荒岡) あとのお話探していただいたんだけど。
〇問(山中) 卒業した後の話。ここに書いてあるとおり?
〇Kさん そうです。
〇問(荒岡) とにかくそうやっておやめになったんですけど、Kさんの中に活動家歴というか、活動の経験というのは何を残しましたか。その後のKさんの生き方にどういう影響が残りましたか。
〇Kさん 具体的にはやっぱり国家権力というものが分かったということです。分かったから、じゃあどうなるかっていうわけじゃないですけど。ただ、もう活動とか運動とかに関わらず、ずっと生きてきたんですけど、自分の中にしまっていたんですけど、10・8のプロジェクトに出会って、それで、ああこれは私が及ばずながらここで少しはお役に立てるかなっていう感じなんですけど。それで山中さんに出会いました。
〇問(荒岡) それはいつ頃ですか。
〇問(山中) 出会ったの?
〇問(荒岡) 10・8プロジェクトに。
〇Kさん 15年ぐらいだと思います。50周年の2年ぐらい前。
〇問(山中) もっと前じゃないの。
〇Kさん そうですかね。それで、記念誌に書いたんですけど、いろいろあって上野千鶴子さんの講演に、講演とかで上野さんの言ってることが多少胸に響くことがあって、行ったんです。初めて上野さんの講演に行って、結構上野さんの講演会に何度か行ってたら、上野さんが自分は山ア君の死をきっかけに学生運動をするようになったっていうことを知りました。上野さんに、「実は私、山ア君の亡くなったときに一緒に弁天橋にいました」って言ったら、「じゃ、あなた早速ここに連絡してください」って言って、10・8の山アプロジェクトっていうのがあるから、そこに連絡してって言って、電話したときに原田さんが出たんですよ。それで集会とか行ったら、そのうちお手伝いしてくださいってことになって、今に至ってるんですけど。上野さんはプロジェクトの発起人でした。
〇問(山中) 横浜国大って、高橋源一郎は、時代はズレてる?
〇Kさん 源一郎さんは、多分私が出た年に入ったと思うんですよ。ただ、高橋源一郎さんの講演会に行ったことあるんです。そうしたらすごく横浜国大の名称変更の闘争のことを話してました。高橋さんが付き合った女の人とか周りの人がよく横国の闘争のことを自分に話してたからって言ってました。
〇問(伊東) この学芸学部が教育学部に変わるときの話ですか。
〇Kさん そうです。
(2)いろいろな仕事を経験した
〇問(山中) それで、Kさんに聞きたかったことなので、下のほうにコンサートの企画をするとかってあるじゃないですか。どういうことをやってたんですか。
〇Kさん ぜひみんなに聞いてもらいたいなっていう人、音楽とかそういう人に出会ったときに企画、会場準備してチケット売って、コンサートを実際に成立させたっていうこと。
〇問(山中) それはどっかの会社に入って。
〇Kさん 違う。自分で、個人で。
〇問(山中) 個人で。
〇Kさん 個人です。
〇問(荒岡) 場所も自分で借りて。
〇Kさん そうです。
〇問(荒岡) どんな場所を借りられたんですか。
〇Kさん 小さいライブハウスとか、大きいところでは市民センターとか借りてやりました。
〇問(石橋) 就職してお仕事っていつぐらいまでお仕事されてたんですか、農業団体に。
〇Kさん 70年から76年です。
〇問(石橋) そうか、76年。
〇問(荒岡) 結婚なさってからは就職しておられないんですか。
〇Kさん それで、そこに家で公文の指導者やったり、あと花屋とかレストランとかいろいろ、ずっとパートとかアルバイトをいっぱいしました。
〇問(伊東) 失礼ですけど、お子さんは。
〇Kさん います。男の子が2人います。
〇問(荒岡) 男の子はKさんの活動の影響は受けてますか。お話しになったりして。
〇問(石橋) 話はしてる? こういう話を前やったとか。
〇Kさん 話はしてるけど、興味ないみたいです。いけないですね。
〇問(伊東) そんなもんです。
〇Kさん 男の子2人なんですね。上の子が分かりそうだから言ったら、あんまり興味ないみたいで、下の子はあんまり興味ないかなと思って話さないでいたら、もう大きいですけど、大学で先生がかなりの人が学生時代の話してるよとかっていって。学生運動のこと話してるよとか言ってて。
〇問(荒岡) 大学生ですか、2人とも。
〇Kさん もう全然大きいです。40代です。下の子なんて、大学の先生が授業中に学生運動のこと話してるよとか言ってて、お母さんも勉強して大学の先生とかなればよかったじゃないとかって言われて。今思えば本当に、皆さんはそういうお仕事でしょうか、いや勉強続けて学者になって大学の先生とかなるのはいいなと思って。ただ今さら言ってもね、しょうがないですけど。
〇問(荒岡) だけど、卒業なさって農林省の試験場にアルバイトで行かれた動機は何だったんですか。
〇Kさん それっていうのが、3月31日の日に電車の中で小中の同級生に会ったんですよ。仕事が何もなくて、もう教員は落ちてましたから。どっかないって言ったら、3月31日の日にあるよ、行ってみたらと言って、4月1日にその人の紹介でアルバイトに行ったんです。たまたまなんです。
〇問(荒岡) その友人が農林省の試験場にいたわけですか。
〇Kさん その友人は、そこで前にアルバイトをしていました。ここのところはもう本当に昔のことですから、時給が250円ぐらいだった。しょうがないから、家で塾したりいろいろで。
〇問(荒岡) 時給250円。でも、8時間働いたら2000円でしょう。20日働いたら、あるいは25日働いたら5万円じゃないですか。この69年頃の初任給ってもっと安いですから、3万円ぐらいかな。
〇Kさん 70年の初任給が3万8,000円か、それぐらいだったと思います。それで一応OLをしたんです。
(3)反戦の思いを抱えて生きてきた
〇問(石橋) でも、ここにお書きになられてる「生命を賭けたことをやめたことは、それなりの心の傷を負い」という、でもそのことは自分の過去は一切語らず生き延びてきたという、この辺の重いものっていうか、Kさんがこれまで生きてきた中でやっぱり引きずってきたものが何だったかという、ちょっと響いてくるものがすごく伝わってきます。隠れキリシタンのように振る舞っていたけれど、10・8プロジェクトに出会ったというのがやっぱり、反戦の思いというか、権力というのが何だかよく分かったとおっしゃってしましたけど、反戦の思いというのはやっぱりずっと抱えていたんだなとすごくよく分かります。
〇Kさん そうですね、何かのときに上野さんが記念誌の私のこれを読んで、最近また会ってないですけど、2、3年少し前に。
〇問(荒岡) これを読まれたんですか。
〇Kさん そうです。そうしたら、学生運動から離れて今までのことが知りたいって言われましたね。
〇問(荒岡) 私もそうです。
〇問(石橋) それを語るっていうのはなかなか難しいんですけどね。
〇Kさん 党派を離れて、それでなおかつ現在にこの10・8になる。それでそれをちょこちょこって書いたんです、ここのところに。
〇問(荒岡) だけど、全く68年4月以降は関わりをお持ちにならなかったんですか、活動には。68年4月に抜けてからはずっと一切関わりを持たなかったんですか。
〇Kさん ないです。一緒に抜けた2人はね……
〇問(荒岡) 2人一緒に抜けたんですか。
〇問(伊東) 3人で、仲の良い3人で抜けられた。
〇Kさん 同じ学年の人と1年下の3人で、その3人は考え方もやることも一緒で、あとの2人とはその後も、最近あまり会ってないですけど、よく会ったりお話しして。だからその2人がいたから、まあ何とか。たった一人じゃなかったから生き延びられたって感じなんです。
〇問(荒岡) そのお2人は今どうしておられるんですか。
〇Kさん 1年下の人は東京で教師になって、校長までやったのかな。もう1人はまあ適当に東京でいろいろと普通に暮らしてます。
その当時の横国の人とは2度と顔見たくないなと思って。横国の人にはもう会いたくないなと思ったんですけど、その当時自分が学生運動やってたときに気が合って一緒にいた他大学の人は今どうしてるかなと思って、気になっています。
〇問(荒岡) それは、気になってる方は男性も女性ですか。
〇Kさん そうです。プロジェクトで2人ぐらい生き延びてて会えました。
〇問(石橋) それはよかったですね。
〇Kさん よかったです。
(4)全共闘運動はいいなと思った
〇問(山中) Kさんやめてから、69年以降に全共闘運動というのが全国で、東大安田講堂とかいろいろあったけど、その後72年、連合赤軍に至るまでの間のこと、いろいろテレビとか見てたと思うんですけど、どういう感じでした?
〇Kさん 全共闘はいいなと思いました。いいなと思ったというのは、何しろ私は党派が嫌いなんです。
それで、皆さん多分「君が死んだあとで」は観られたと思うんですけど、あそこで岡さんが言っておられるけど、当時の悪いのは、一つずつこうやって党派で党派を作って、党派で相手の党派と闘うという形があって、私それ嫌なんですね。一つの党派だから何もかもこの党派の人は同じで、他の党派の人は全く違うから、党派の人と党派の人が闘うという、そういうのがすごい嫌で、だからやめたようなものなんですけど。そうしたら、全共闘は、外から見てるとですよ、党派を越えて、関係ないとは言えないんですけど、党派ではなくて個の集まりとして運動ができたのはすごいいいなと思いました。
〇問(荒岡) 横国も全共闘あったんでしょう。
〇問(山中) あった。横国、結柴さんは知らない?
〇Kさん 結柴君?
〇問(山中) 知ってる? 杉並の。
〇Kさん 結柴君はすごいよく知ってるけど。
〇問(山中) 区議会議員になってるね。
〇Kさん そうだったんですか。でも、結柴君ってあれじゃないですか、あそこの相当上にいたんじゃないですか、革共同の。
〇問(山中) だから水谷さんなんかもよく知ってるよね。
〇Kさん ただ、その後あさま山荘とか連合赤軍とか、やった人にはそれなりのやらざるを得ない事情があったんでしょうけれども、私としては何でこんなことやったのって感じで、まずいことやっちゃったなと思って。鴻上尚史さんの「僕たちの好きだった革命」っていうの、知ってます?
〇問(山中) 知ってる知ってる、小説で読んだ。
〇Kさん あの芝居を見て、私はとても感激したんですよ。意外と10・8のプロジェクトの人は関心ないような感じで。
主人公が山ア義孝君かな。何しろ山本さんと山ア君を合わせたような名前だったんですよ。そのときに言ってるのは、当時はすごくきらきらしててとても輝かしい部分があったんだけど、終わり方が悪かったって言ってるんです。私もそうなんですけど、無責任かもしれないですけど、何か終わり方が悪かったのがすごい残念で、結局終わり方が悪かったから、当時の自分が活動してたことをみんな表に出さないで隠してるんじゃないかなと思うんです。それはすごい残念だなと思います。
(5)マルクス・レーニン主義と暴力革命について
〇問(荒岡) これまでの話とは関係ない話ですけど、Kさんが闘った理由というのは、国家権力を見て国家権力と闘う気になったという話でしたけど、思想的には自分はマルクス主義者だと思ってますか。マルクス・レーニン主義者だと思ってますか。
〇Kさん うん。うんとか言っていけませんか。
〇問(荒岡) 当時も今も。
〇Kさん 当時も今も、こんなに知識も内容もないのにって言われるかも知れませんが、昔も今もそうだと思ってます。
〇問(荒岡) そうですか。
〇Kさん だって、読んだ本だって少ないし、理論的にもすごい人いっぱいいるから。ただ、私、マルクスの言ってる人間の類的存在というのはすごく大事で、あれがあればみんながもっと良く暮らせるんじゃないかと思って、すごい大事なことだなと思って。
〇問(荒岡) みんなが類的存在でいられる社会を望んでおられる、今でも。
〇Kさん そうです。そうしたらもっと、何か単純なことですけど、他人の命が大事にできるんじゃないかなと思うんです。
〇問(荒岡) そういう社会を、そういう人間関係、そういう社会関係を持った世の中を創るのに、暴力革命は必要だと思ってますか。武装闘争は必要だと思いますか。
〇Kさん 暴力革命ですね。必要じゃないと思います。
〇問(荒岡) 今は。当時は?
〇Kさん 当時も必要じゃないと思います。
〇問(荒岡) そうなんですか。
〇Kさん うん。いや、無責任ですけど、そこまで考えてなかったというか。
〇問(荒岡) でも、67年から68年、佐世保、成田まで結構ちゃんと暴力闘争やってたじゃないですか、みんな。
〇問(山中) 実力闘争ですかね。
〇Kさん でも、暴力革命ということの、もっと言っちゃえば内容というか、人を無差別に殺すというのが暴力だったら、それは違うんじゃないかなって気がするんですけど。でも、よくゲバルトの公的暴力とかっていうのがあるじゃないですか。そこの部分でどういうふうに捉えるかっていうことですよね。
〇問(荒岡) 答え出してない。
〇Kさん ただ、まあ難しいですけどね。
(6)津軽三味線とロック
〇問(伊東) 話が全然変わってあれですけど、津軽三味線をやられてる?
〇Kさん そうです。結局87年だから40から始めたんです。できたらこれを一生懸命やって、これを一生の仕事にしようと思ったんですよ。だけど、40からですので、やっぱりもう音楽は子供のときからやってプロになれるかなれないかの世界だから、結局なれませんでした。
〇問(伊東) 今は趣味でやってらっしゃる?
〇Kさん 今もというか、父母の世話をした頃からずっとできなくて、できないまま今に至ってますけれども。もともと大学に入ったきっかけが芝居をやりたいということで、芝居をやるはずが学生運動に関わるようになって、ただ、芝居をやりたいというのはずっと続いてて、チャンスがあればいつもどこかでやりたいと思いつつ、やらないできちゃって、それを津軽三味線、竹山さんの生き方とかで、やっぱりあれは貧困とか差別とか偏見に対しての意地というかすごく心に響くというか、共通するものがあって、これで自分を表現したいなと思って、一生懸命頑張ったんですけど、でも技術がついていきませんで。だから自分なりには。
〇問(伊東) 手の動きもあるからね、年齢。
〇Kさん やっぱり今もう若くてスピードのある人がメインです。
〇問(伊東) コンサートはその関係でやられたり。
〇Kさん そうです。
〇問(伊東) どういう方のコンサートを企画されたんですか。
〇Kさん 北海道にいる新田昌弘君っていう子がいて、その子が若くてうまくて、東京に来たとき。あと津軽三味線のほかの人のコンサートとか。あとそこに書いてあるんですけど、ロックです。友達が原宿でライブハウスやってて、そこでいろんなロックのミュージシャンに会って、ロックのコンサートとかやってて。
〇問(荒岡) 大学時代にはロックバンドなんかと関係してなかったですか。学生バンドとか結構あったんだけど。
〇Kさん 音楽は85年の原宿のライブハウスで初めて。そのときジョー・山中で、彼の歌を聞いた瞬間にもう。
〇問(伊東) ごめんなさい、どなた?
〇Kさん ジョー・山中です。もうあの表現力には敵わないと思って、芝居で1時間半ぐらいやってるのを、一瞬にして世界を変えてしまったというすごさがあって、ロックの人ともいろいろ出会って、ロックのコンサートもやりましたけど。
〇問(石橋) シーナ&ロケッツですか。
〇Kさん シーナ&ロケッツです。シーナも死んじゃいましたけど。
〇問(石橋) そうですね。3年ぐらい前ですかね。
(7)高橋和巳がいなかったら生きられなかった
〇Kさん 皆さん逆に高橋和巳はどう思われますか。
〇問(荒岡) 微妙だな。
〇問(山中) ほとんど読んだことないから分からない。
〇Kさん そうですか。私は高橋和巳がいなかったら生きられなかったと思う。
〇問(山中) 『邪宗門』だけ読んだ。
〇Kさん やめた後のもう本当にやっと生きてるような状態で、この人だけが世の中で私を分かってくれるんじゃないかと思って。だから、高橋和巳はもう本当に私にとって一つの救いでした。
〇問(石橋) 『わが解体』とかあの辺の頃のエッセイというのは、なかなかちょっと響いてくるものありますよね。
〇Kさん 『憂鬱なる党派』とか『邪宗門』とか大好きです。
(8)上野千鶴子さんとのこと
〇Kさん あとそこに書いたんですけど、姜さんというのはどういう人なんでしょうか。学生運動やってたって、本人言ってられますけど。
〇問(荒岡) 誰?
〇Kさん 姜尚中さん。
〇問(石橋) 私は全然知らない。
〇Kさん でも全然知らないっていうから、どこで学生運動やってたのかしら、革マルかしら。
〇問(石橋) 可能性あるんじゃないかな。
〇問(伊東) ここの上野千鶴子さんに会われて、感じたものというか、みたいなことを先ほどおっしゃってましたけど、具体的にはどういうことだったんですか。
〇Kさん 上野さんは名前は有名で、マルクス主義ジェンダー何とかって言われていますよね、彼女の理論は。
〇問(石橋) マルフェミとかいいますね。
〇Kさん 彼女を紹介する文章ではあんまり好感持てなかったんですけど、テレビで顔見て、ああ何かよさそうな人だなと思って。
〇問(伊東) 関西弁で話すしね。
〇Kさん 顔もすっきりしてるし、何かもっとごてごてした感じの女の人かなと思ったら、さっぱりすっきりしてる人で。それで、姜さんと上野さんが対談するというのがあって、七、八年前ですかね、行ったんですよ。終わった後ちょこちょこっとお話ししたら、上野さんが話したことが結構響くものがあって、上野さんに「あなたも世の中で浮いてる人ね」とかって言われて。それで何回か講演のたびに行ったり、あと上野ゼミって上野さんが主宰してる私的なゼミがあって、それにも何回か行って、結構言ってることがすごく的を得ているというか。
何回か行って、それで上野さんが10・8の発起人でこういうプロジェクトがあるから、あなた問い合わせてみなさいって言われ、10・8に関わる糸口を作ってくれた方って感じです。
〇問(伊東) 彼女何歳なんだろう?どれぐらい上なのか。上野さんって何歳ぐらいか分かります?
〇問(山中) 歳?
〇問(荒岡) 一つ下じゃない。一つ下だよね。
〇Kさん 山ア君と同じ。同級生。
〇問(伊東) そうなんだ。
〇問(荒岡) 一緒。だから一つ下ですよね。
〇Kさん だから2年下です。私は47年だけど2月だから。学年的には2学年下です。
〇問(伊東) そうなんだ。
〇Kさん だから同級生の山ア君が羽田で亡くなって、それをきっかけに上野さんは学生運動をやったって、あちこちで言ってるので。
(9)芝居への思いと家族の介護のこと
〇問(荒岡) 高校も大学もとりあえず劇研だったじゃないですか。芝居をやりたいと思うようになった動機は何だったんですか。芝居はアクターとしてやりたいと思ったんですか。それともシナリオライターとしてやりたいと思ったのか。
〇Kさん 結構芸事が好きだったんです。踊りを踊ったりとか。好きだけどやらせてもらえなかったから。お琴とかも習いたかったけど、お金ないから駄目とか。ピアノも駄目、踊りもやりたかったけど、駄目駄目駄目って感じで。昔は舞台に立つことが結構好きだった。
〇問(荒岡) 学芸会か何かの。
〇Kさん そうです。
〇問(石橋) そっちのほうでの何か楽しい思い出とかない? そういう芸事とか、小さい頃。
〇Kさん 特にないですけど、何しろ芝居は学生時代はやりましたけど、半分裏方とかで、あともうほとんど論争でした。戯曲分析というのがあって、みんなで合宿して分析すると、もうほとんどがお互いに論争ですよ。
〇問(荒岡) 73年に夢の舞台に立つために劇団養成所に行くことになってますけど、どこの劇団養成所ですか。
〇Kさん 青年座というとこです。
〇問(荒岡) 青年座ですか。
〇Kさん これも親が、みんな家中が、親とか祖父母が病気でいろいろあってやめざるを得なくなって、途中でやめました。
〇問(荒岡) 家に振り回されてますね。
〇Kさん 何しろ家で、もうお前だけが頼りって、子供のときからずっと亡くなるまで、私しか両親看てないし、もう両親に泣きつかれて仕方なく仕方なくです。皆さんもいろいろとご家族の介護とか看護とかあると思いますけども、ここに書いたのはもう本当にそれに振り回された日々でした。
〇問(伊東) 長いですもんね。
〇Kさん ちょうどプロジェクトのときで、母は13年のお正月の2日から2017年の暮れまで5年間、もう入退院の繰り返し繰り返しで。
〇問(荒岡) お父さん、お母さんは施設には入らなかったんですか、介護施設。
〇Kさん 入りました。両方入りました。施設と病院とぐるぐるぐるで。
〇問(伊東) 2011年というのはお亡くなりになったんですか。
〇Kさん そうです。2011年に父が亡くなって、今度2013年に母が病気になって施設に入って、5年間毎日のように施設と病院ぐるぐるしてて、それで母が2017年に亡くなって。
〇問(荒岡) 今、山アプロジェクトに関与しておられるわけですけど、何かこれからまだやってみたいことってないですか。
〇Kさん やってみたいことですか。
〇問(荒岡) やってみたいこと、やりたいこと。
〇Kさん 一応ですけど、今やってみたいというか、同人誌にエッセイは書いてます。それは続けていきたいなということと、あとは芝居も諦めてませんので。
〇問(荒岡) いいですね。今、シニア劇団みたいなのが。
〇Kさん そうですよね。蜷川さんとか埼玉のほうで作ってますね。できなくても諦めないということが一つの目的にならないと。
〇問(荒岡) それはそうですね。
どんなエッセイを書いておられるんですか。何をテーマに。
〇Kさん 何にもテーマはないです。日々の雑感です。
(10)インタビュアーの自己紹介
〇Kさん 逆に、今皆様が今何されてるか教えてください。
〇問(荒岡) じゃ、自己紹介で、今やってることだけお話を。
〇Kさん ほかにも何か経歴でも何でも。私がこれだけまな板の鯉になりましたので。
〇問(伊東) ですよね。
〇問(荒岡) 僕はとにかく今まだ現役で仕事やってます。週3日、留学生にパソコンを教えてるんですよ、パソコンのアプリケーション。それと、あと週4日は夜、塾で日本人の受験生たちに勉強教えてます。
〇問(伊東) ボランティアで。
〇問(荒岡) ボランティアじゃない。もちろんちゃんと仕事。稼いでます。
僕は東工大でサークルは文芸部やってたんですよ。文芸部の先輩には吉本隆明とか奥野健男なんかがいて、やっぱりそれの延長で僕なんかも学生運動にディープにコミットしていくんです。そのとき以来のずっと問題意識で、このインタビュープロジェクトも手を挙げたんですけど、さっきからKさんに質問させていただいた中に、僕の抱えてる問題というのは、僕が解き明かしたい問題というのは含まれてました。その解答を求めてこのインタビュープロジェクトを僕は進めたいと思ってるんですよ。大変今日は有益な話を聞かせてもらったと思ってます。
〇Kさん 私、山中さん全然知らないです。
〇問(荒岡) 知らないよね。山中は何だ。
〇問(山中) 無職です。今は山アプロジェクトの事務局をやめて、こちらの「全共闘白書」のインタビュープロジェクトの方に関わっています。あとはブログ書いたりパソコン作業してる。その程度です。
〇問(荒岡) 山アプロジェクトやめたの。
〇問(山中) やめました。やめたけど手伝いはしてる。
〇問(荒岡) あれはやめるとか始めるとかって、具体的にどういうことなんですか、やめるって。同盟員をやめるとは違うじゃない。
〇問(山中) だから事務局だったんだけども、50周年をやって、50周年を機に、一応退きました。サポートはするけど前面に立っていろいろ事務的なことをやるとか、そういうのはもうこれでやめますという意味です。
〇問(荒岡) 関係ないけど、体の具合どうなんですか。例のやつ。
〇Kさん お体悪いんですか。
〇問(山中) まあまあ。来週内視鏡検査です。
〇問(荒岡) まだ内視鏡はやってなかった?
〇問(山中) やってない。あんまり考えないようにしてる。
〇問(荒岡) だけど、僕何年前だろう、やって、やばそうだってポリープを四、五個取ったんじゃないかな。それ以来大腸のほうは大丈夫だけど。
〇問(石橋) 今、鼻から入れたりする。
〇問(荒岡) 胃カメラね、それは。内視鏡って下のほうからです。
〇問(山中) 大腸カメラだから。
〇問(荒岡) 大腸カメラ、嫌だよ。
〇問(山中) あれ苦しいんだよ。
じゃ、石橋さん。
〇問(石橋) 先ほどちらっと最初に言いましたけど、僕は高校の頃にがっつり全共闘運動に関わるようになった。大学、ずっとノンセクトで長かったです。
今も働いてはいるんです。ハローワークで職業相談紹介事業っていうとこにいて、いわゆるキャリアコンサルタントです。今日は半日ですから、午前中仕事して休み取って来ました。12時過ぎに出ようと思ったんですけど、最後に番号呼んだ人が結構強気のおばさんだったので、ああだこうだって窓口でいろいろやってたら、出るのが20分くらい遅くなっちゃったんで、駆け付けたということでした。
その後大学とか、卒業した後も就職したけど、労働運動みたいのをやってたんですけども、それでちょっと2年くらい会社といろいろやりとりして負けて、会社を辞めざるを得なかったとかあったりしたんですけど、その頃はちょうどもう運動も退潮化してきたし、個人的には家族とかも子供が生まれるし、そろそろちゃんとしなきゃいけないということで、その頃から運動はやめてたんです。
やっぱり60近くなってきたから、自分がやってきたことって一体何だったんだろう。ここに「生き延びてきた」って書いてありますけど、自分も同じようにサラリーマンになってから、本当に自分のことは語らずに生き延びてきたって感じだったんですけど。ちょうど傷が癒えたなんていったらかっこよすぎますけど、かさぶたぐらいになってきたので、そろそろ少し自分のやってきたことを振り返ってあれしたいなと思っていたときに、10・8のプロジェクトだとか、「白書」のことなんかに出会って、自分自身のこととしてそういうことに関われたらいいなと思って、多少お手伝いをさせてもらってるような次第です。
もう少し生き延びて、自分のやってきたことなど、特には、今日(田中)さんが来てましたけど、若い世代の人たちとの対話の中で一緒に考えていけたらいいなと思ってます。
〇問(伊東) 伊東といいます。私よりも2つ上なんですよね。やっぱり2年違うと経験した運動も随分違うなという感じがしました。私は九州、北九州大学なんですよね。九州から見た闘争って、東京ど真ん中で起こってたものとやっぱり違っているなという気はしたんですけども。
長い間労働組合のほうで働いていて、定年退職の後にもう働くの嫌だというので、年金をベースにずっと障害者の地域生活支援の活動をやってたんです。そこの活動の中からヘルパーの障害者生活支援のNPO法人を立ち上げて、何年か間理事をやってたとかという経過があって、今はそこの仕事を手伝いながら、年金とその分をプラスした生活をしている。
全共闘運動っていうふうに見たときに、いや、やっぱり男の運動だったよなという、振り返ったら思って。だけど、女性という視点で言えば、やっぱり本当に未熟な、未開発のまま、でもバリケートに入ってゲバルトもちょっとやってみたいな、火炎瓶を投げたりしてみたいな。
そういう中で、やっぱり今までの女性像と変わっていく結節点だったというふうに思うけれども、女性としてどう関わるかみたいなところの問題意識が醸成される機会がないまま、運動としては収束していって、あとそれぞれのところでの闘いになって、運動としてはフェミニズムの運動が上がっていくというところで。私はどうもフェミニズムに乗る気がしなくて、だけど未消化のものはずっと抱えていて、今度の『全共闘白書』」の「続」を作るときに、関わっていた3人ぐらいの女性たちと話をして、質問の項目を作ったという。
リブやフェミニズムなりが出てきた全共闘以降の時代の中で、意識が変わったことがあるかという設問を出して、だけど実際結果を見ると、結構女の人も変わってないって方が多いんですよね、女の回答の人でも。
〇問(荒岡) だけど、あの質問について言うと、僕変わってないって書いたんですけど、僕は実践的に男女平等主義者で。
〇問(伊東) もともとあった分が変わってないという話してて。
〇問(荒岡) だから、そういうので変わってないという、マチズモで変わってないわけではないよ。
〇問(伊東) それはお聞きしてますけど、ああやっぱりそういう時代だったかなという気はしてます。だから、それ以降成熟していく過程というのは、その後を待つしかなかったのかなみたいなところがあったりして、さっき上野さんのおっしゃってたことのどこに何かを感じられたのかなというふうにちょっとお聞きしたところなんです。
〇Kさん ただ、何となく思ってることを彼女はうまく言語化できるというか、それがすごい。
〇問(伊東) 鮮やかですよね。
〇Kさん それが学者としての彼女を確立させてるものだと思うんですけど、やっぱりそれは、立場も立場というのもありますけど、何かやっぱりすごいなと思って、何となく思っているようなことをスパスパスパと。
〇問(伊東) 前、朝日新聞の土曜日の悩みの。
〇Kさん 読んでます。
〇問(石橋) 今、上野千鶴子と鈴木涼美というあれが結構。
〇問(伊東) 昨日買った。
〇問(石橋) あれちょっと面白そうだな。
〇問(伊東) そうなんですよね。だから昨日ちらっと見た中では、上野さんが言う、私たちの時代は家庭が強固だったと。だから家族帝国主義解体なんて言ってられたけども、今の子供たちは今にも壊れそうな家族を抱えて、それを留めるために精一杯なんだっていうようなことを書かれたんですよね。だから本当に時代の中でも。
〇問(荒岡) まだ録音してますけど、とりあえずインタビューは以上で。ありがとうございました。
〇Kさん 何か取りとめもなく申し訳ないです。
(終)