書評 『続・全共闘白書』(続・全共闘白書編集実行委会「編」)

三上 治

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 今年は1960年の安保闘争から60年目である。人間の歳でいえば還暦を迎えてということになる。この年の初めに届いたのが『続・全共闘白書』である。この本が刊行されることは知ってはいたが、700頁を超える分厚さと共に年明け早々に届いたのは驚きだった。僕にも本書のアンケート依頼は届いていたが、忙しさにかまけてか、僕は返答をしなかった。そんなこともあって直ぐに読んだ。ここは俺とは違うな、ここはそうだよね、と自己問答をしながら、自分もまたアンケートに答えるように読んだ。全共闘運動の事を色々と想起して楽しかった。そして長年にわたって考え続けてきた全共闘運動のことをあらためて考えた。かつて全共闘運動に関わった人、それを外部から知り、興味を抱いてきた人、それぞれに楽しく、興味を満たしてくれるものだと思う。

 この本の前には『全共闘白書』(新潮社)がある。「二十五年目の全共闘」としてこの本は大きな反響を呼んだ。あれから、二十五年を経ての『続編』というのがこの本である。これはアンケート(かつて全共闘運動に関わったと目される5000人余に依頼をしたらしい)に答えた450超の回答からなっている。全共闘運動の体験者たちが、かつての運動について、それを媒介にしながら現在の諸問題をどう考えているかが語られているのだが、この本は全共闘運動の体験者でなくても読めるものになっている。

全共闘運動といえば小熊英二の『1968』(上・下)(新曜社)がある。これは上下で2000頁にもなるものであり、全体的な考察になっているが、それにくらべれば、このアンケートの回答による構成は違っている。しかし、この本は『1968年』とは違う読み応えもある。この理由は全共闘運動が多様で理念や言表を与えきれないものだった、ということからくるものだ。運動の渦中にある時に、その運動の主体的な担い手は何をやっているのかわからないものとしてある。この運動が何であり、どういう意味を持っているかなどはある程度、時間を経てしかつかめないことがある。だが、全共闘運動はその構造というか、運動自体がなんであったのか、抽出しにくいところを持っていた。そういう他ないところがあったのだ。小熊英二の『1968年』は全共闘運動に関わった面々からは評価は芳しくない。僕の周辺の人たちは大体のところそういう評価が多かった。これには彼の全共闘運動を析出する方法(切口)によると推察されるが、同時に全共闘運動を全体的なものとして考察することが難しいということもあるのだと思う。こうしたことは運動の渦中でも気づかれていたことでもある。

例えば、バリケードの中で得た自由や解放感、あるいは実力行動(ゲバ棒をかざして行動)の持つ緊張感、それが実存感覚としてあったものは、概念や理念、つまりは言葉や理論的な表現にはなりようがなかった。言葉や理論的な表現にすれば手から砂がこぼれ落ちるようなものとしてあった。

これらは全共闘運動の体系的な全体的な表現を拒んできたものであり、ある意味で体系的で全体的な表現としては答えることは不可能なものだった。こういう表現を拒んでいることが全共闘運動の革命性であり、反芻を繰り返すかたちで諸個人の記憶として現在まで残ってきたものといえる。アンケートによる回答というのはこうして事態への対応としては優れた方法といえる。。

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アンケートは問1(全共闘運動あるいは何らかの政治社会的運動に参加しましてか。ア、一般学生として参加 イ、活動家として参加 ハ、参加しなかった 二、参加も評価もせず ホ、その他(自由表記、以下同)から、問75(最後に、今だから話せる当時の事、今こそぜひとも伝え遺したいことをご自由にお書きください)までの設定になっている。この設定を作った呼びかけ人は苦労したと思うが、これは全共闘時代の総括というか、対象化が含まれているのだと思う。このアンケートの回答には自由な表記が許されていて、アンケート方式の制約に対する考慮が施されているのはよかった。自由表記は本書に彩を与えている。

この設問に対して(そのある部分についてだが)疑念を阿部知子は呈している。

阿部知子は衆議院議員(立憲民主党所属)で医師であるが、東大時代はフロントに参加していたといわれている。ちなみにフロントとは社会主義学生戦線と言われた新左翼系のセクト(政治集団)で仙谷由人などが在籍していた。彼女はこのアンケートの問30、問31、問32は意味がない、もしくは不適切、と指摘している。この問30は「治る見込みのない病気になった場合、最後はどこで迎えたいですか」。問31は「治る見込みがなく死期が迫っていると告げられた場合、延命治療をどうなされますか」。問32「終活」「死に向けての準備」はなされていますか。されている方は具体的にお書きください。この30.31,32には老齢期を迎えて迫りくるように見える死の問題にどう対応しようとしているのか問いだが、この設問、事態に意味がない、あるいは不適切という指摘はなるほどと思った。この阿部知子の指摘は全共闘世代(経験者)が死についてどう考えているのか、という問いかけであり、彼女の答えでもあるように思う。

僕は少し前に西部暹の死(自殺kマ自裁)に驚き、違和感を持ったことがある。彼の自死(自殺・自裁)は意志による選択という死生観によったものだと理解しえたが、この意志による死の選択というこことに疑念をも持った。西部はしのびよる老いとそのもたらす事態に意志的な死で対応するということを語り、実践したのであるが、彼には想像力で引き寄せた老後の状態や死のイメージあり、それに対する意志としての死をもってたいしたのだと思う。死はそれぞれの諸個人のありようであるかぎり、どうこういうことはないと言えるが、死はまた文化様式の問題として関係してくる。その意味では西部の死を肯定しえないと思ったのである。日本には死についての文化様式がある。最も見事に死ぬことが最も見事にいきることだという死生観であり、死についての宗教である。これは戦争での死を根拠づけるものだった。

この死についての文化様式は全共闘運動の時代でも影響力のあるものとして残っていた。その一つの行為として三島由紀夫の自裁があった。この行動は衝撃だったが、こういう死に方に疑念を持った。三島の意思的な死の選択は人間の自由な行為(死の恐怖の克服としての意志的な死)という考えだが、これには疑念を持ち、これには抗わねばならないと考えた。少し、後の連合赤軍事件のときもこのことは考えされたものだった。連合赤軍の粛清劇は死(生)の恐怖を克服するものとして起こされたと考えたが、この時、僕は森恒夫等には日本文化の様式としてある死についての思想から自由ではなかったし、それと抗おうとはしなかったと推察した。三島由紀夫の死生観と地続きのように思えるところがあるとおもった。僕らは全共闘運動の中で死(生)についての問いかけをしていたが、僕は日本と文化様式としての死についての考えには抗ってきた。阿部知子の設問への批判から、僕らの死生観の問題、それは生き方の問題でもあることの提起を読んだ。ここの設問はどうだったよかったのかとも考えた。もちろん、これといった設問が浮かんだわけではないが、ここは考えさせられる箇所だった。

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多くの人の回答を読みながら様々の事を想起した。鬼籍に入ったありし日の友人のことを思い浮かべたのだが、雑誌で読んだ重信房子の歌を思い出した。彼女はこのアンケートにも回答を寄せている。問75には長い回答を寄せているが、僕は彼女がある歌誌に寄せていた歌を思い出した。「マルクスやトロッキー読み吉本読みわたしはわたしの実存で行く」(歌誌『月光』62)。この歌はいつごろのものかわからないが、一瞬にしてあの時代のことを思い起こさせたのだ。全共闘運動の中で僕らは当時、行動した。と同時にマルクスやトロッキーや吉本の本を読んだ。この二つは同時的なことだった。そしてある意味でその関係に矛盾も感じ、苦しんだ複雑な構造を持っていた。重信はこう記している。「おしきせから自由へ!私自身、自分の考え通りに、自分らしき生きていいのだ、と解放感いっぱいでした」。わたしはわたしの実存で行くとは自分の現存感覚や意識を表出だった。重信は、また、「社会にそういう空気が伝搬し、新しい社会の空気を創りだしたのは、全共闘運動でしょう、リブや、文化、生活の変化の兆しとなったと思います」と記しているが、この自己意識の表出は運動となってあわわれる。これは自己意識の表出が、社会の中で可能となり、その社会関係をどうするかという指示性を持つことを不可避にするからだ。人間の人間的な意識の存在とその表出は人間の生み出した社会の中で可能となるものだし、それは社会のあり様を問うものだ。それは逆にいえば、人間の自己意識の表出ということが、社会や国家の中で抑圧され、疎外されるからだと言える。自由に生きる、わたしはわたしを生きる、いわば主権を生きるということは現存の国家や社会と衝突し、その変革(保守)を余儀なくさせる、運動はそこでうまれる。マルクスは共産主義とは何かを問われて、それはイデオロギーのことではなく、運動の事であり、その中で生成して行くものだと述べている。

運動は諸個人の表出の意識の表出を基盤にしながら、同時にそれが可能な社会に社会を変えて行くことである。全共闘運動はあの時代の学生たちの意識の表出を実現したし、それこそが、運動の展開となったものだった。その運動を構成した諸個人は多様な存在だったのだと思うが、重信の回答にみられるものが、一般化できるものだったと思う。ただ、全共闘運動が運動である以上は伝統的な革命運動と関係するほかなかった。それはここで、重信がマルクスやトロッキーを、吉本を読みといっていることである。ただ、伝統的な革命思想に従えばよいのではなく、その抑圧性を目のあたりにして、それの革命をも意識せざるをえなかった。そこが特徴的なことだった。伝統的な革命思想の革命的批判という段階を超えて、革命思想を革命するということであり、これは厄介なことであり、現在まで引き継いでいることとしてある。

全共闘運動(反戦運動を含めて)はバリケードや急進的な行動で、つまりはこうした運動形態で当時の学生たちの意識の表出をかなりのところまで実現できた。個々の集合、意志的な行為としての意識の表出は伝統的な革命思想の抑圧に抗してそれを実現した。かつて吉本隆明が全共闘は「天皇制的なもの」「共産党的なもの」を壊したと評されてものだが、革命思想を革命するという課題は未完のままに放置してきた。そうせざるを得ない程に厄介なものだったのである。それは伝統的な革命思想が無意識も含めて遺伝子のようにあり、そこから自由になるには大変なものだったのであり、僕の中にも後遺症のように深く残っている存在だった。

このアンケートでいえば、問5当時、全共闘運動あるいは何らかの社会政治運動によって革命(あるいはおおきな社会変革)が行われると信じていましたか。問6社会主義は有効性失ったと思いますか。というあたりのことにことになるのだろうと思うが、僕は本当の社会主義を模索するという考えに疑念を持ちながらもそこに囚われていた。現在はこの考えは薄くなっている。国家権力をどうするか、それをどう制限しるものに変えて行くかということ、つまりは自由や民主主義を実現するかが差し当たっての革命(政治革命)の課題だと考えている。本当の自由や民主主義とは何かということの探究が課題になっている。当時、1960年代に本当の社会主義を求めたことは現在も消えたわけではないが、あの時代に僕らは本当の自由や民主主義について考えるべきであり、特に政治的にはそうすべきだったという思いが強くある。全共闘運動は大きなくくりで言えば、本当の自由、別の言葉で言えば主権の発現だったと考えている。そこは誰も思想化してはいないが、その概念で包括できると思っている。

僕は丸山真をとは違うが自由や民主主義を永続的なもの考えるようになった。歴史段階的なものとは考えなくなっているがことだが、そのことを考えながらこのアンケートを読んだ。当時の僕らには歴史は社会主義段階に来ている、自由や民主主義の段階は過ぎたという考えが強力に刷り込まれていて、それを前提的なことと考える思考が強かった。これはロシア革命の影響がもたらしたものであり、革命概念を含めて考え直すには時間がかかったが、当時からこの概念に疑いは持っていた。この問いを読みながら思い浮かんだのは二つあった。

一つは当時、僕らは時代を過渡期と認識していた。これを綱領的認識に高めるために、当時のブンドの綱領委員会で討議したことがある。1968年段階のことだが、話はかみ合わなかった。多くのメンバーが現在の世界をロシア革命から資本主義から社会主義の段階に入ったというのを前提にして疑ってなかったからである。資本主義社会が帝国主義段階と規定されることから次の段階に入ったと考えている点では共通していたが、ロシア革命が社会主義革命ではないことはもちろん、その段階で世界は社会主義を含む過渡期に入ったという認識を僕は持っていなかった。ロシア革命後に流布されてこの世界観に多くは拘束されていて疑わないでいた。

 もう一つは当時の新左翼の指導部の面々は当時の急進的な行動が革命(旧来のいみでの権力後退)に結びつくとは考えていなかったということである。機関紙などで宣伝していたことは宣伝であり、現実認識としてはその程度のことは有していたのである。その意味では赤軍派は観念的(空想的)だったし、それはどの指導部の面々もみていたことだった。革命の概念やイメージのとらえ直しということをどこまで意識していたかは別にすれば、政治党派の面々も全共闘運動が革命に結びついていくとは思ってなかったし、その程度の現実認識は有していた。

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このアンケートで興味深かったのは暴力革命という考えの否定が多いかったところだ。連合赤軍事件を契機に運動から離れたという人も含めてこの点は興味深かった。僕らは大学のバリケードやゲバ棒闘争などを暴力革命の観点でみていたのだろうか。このアンケートでも記憶に残る闘争として取り上げられているものに1967年10月8日のゲバ棒による闘争の展開がある、10・8羽田闘争である。この闘いは僕らの反権力意識や社会的な疎外感などを表出させ、緊張感と解放感をもたらした。これは1968年の10月21日まで高まっていくが、これを暴力革命の思想に結びつける傾向はあり、盛んに暴力の概念も含めて議論された、当時、僕は実力闘争ということでこれを概念化していた。これを当時のブンドは「組織された簿力」という言葉を使ってこれを理念化していたが、それとは違うと思っていた。実力闘争いう概念は暴力革命とは違うものだと考えられていた。暴力革命の萌芽と考えることには齟齬を多くの人が持っており、実力闘争の概念で区別しようとしていた。この辺のことは赤軍派の登場でかき消されていくが、伝統的な革命思想のではなく、急進的行動を根拠づけようとした試みは存在していたのである。革命思想としては暴力革命という思想しかなかったのが当時の実態だが、この概念とは違う形で行動をとらえようとした部分はいたのであり、このところで言語表現も理論的抽出も難しかった。赤軍派が登場したことで学生たちのこの行動を暴力革命の観点でこうした行動を位置づけることの空想性は明瞭になった。だがこの問題は残った。暴力革命という左翼ならば疑いのなかった思想が、全共闘運動の中で疑われたこともあったのであり、それは急進的な行動の別の理念化であった。簿力革命か非暴力的革命かはその時の体制(権力)の問題であり、暴力革命という形態を取らないで権力を変えて行くことは未知のことかもしれないが、可能なことである。全共闘運動の中でこういうことは考えられようとしていた。

このアンケートには多岐にわたっており、それぞれでおもしろいが、後半のいくつかの項目には特に目がいった。憲法の改正問題、平成天皇の評価の問題などである。全共闘運動の時代は憲法のことは論じられなかったし、それほど意識にも上らかったことだ。特に憲法9条のことが論じられはしなかった。その点で憲法の問題は全共闘運動以降の問題にされたのだが、これらの回答は平成天皇の評価問題を含めてあらためて論評したい。ともあれ、全共闘運動を想起するにしても、現在の問題として見直すにしろこの本は格好の素材だと思う。

(『出版人』掲載)